霧雨の唄 参

 篠突く雨に見舞われた一週間後のことだった。アリサは小高い山の中で,一人荒く息をついていた。肥えた女の死体を二時間かけてようやく埋めたところなのだ。10歳の少女がするべき仕事ではないが,あいにくケイは次のターゲットを隣の村まで追っている。
 アリサは大木に背中を預け,その場に座り込んだ。
「ケイのやつ……仕事の組み合わせは考えろって言ってるのに……」
 今頃獲物を仕留めたであろう少年を思う。ケイは15歳だが,アリサが知るどの大人よりも聡明で,殺し屋でありながら見せる眼差しは温かい。姉が殺されてから共にいる彼は,いまだに怒りの感情を見せたことが無かった。それでも,長い時間を過ごしているというのに,どうにも掴めない部分の方が多い。
(わたしはケイのことを聞かれても,優しいお兄ちゃんとしか答えられないんだろうな)
 一人で山にいるからだろうか。言い知れぬ寂しさが込み上げ,アリサは慌てて頭を振った。
 木の葉から滴る雨水が心地好い。今日は小雨だが,獣道で豪雨に襲われなかったことは幸運だ。今回ばかりは嫌いな小雨に感謝しよう。
 この村はアリサが物心ついた頃から絶えず雨が降り続けている。他の町村にこのような現象は存在せず,原因は誰も分からないらしい。あるときは強まり,あるときは弱まり,まるで誰かが操っているかのように,村は沈むことなく雨と共に存在している。
(“龍神さまは気まぐれね”か)
 懐かしい子守唄の一節がふと過った。幼い姉の声と共に度々想起するこの唄が,たまらなく恋しく感じることがある。先日ケイに「唄おうか?」と言われたときは思わず頷きかけたが,意地を張って断ってしまった。口には出せないが後悔している。
(ケイからの連絡を待つんだ。ケイからの連絡を……)
 寂しさと妙な不安感が拭えない。すぐ脇に女の死体が埋まっていると思うと,自分のものとは思えない恐怖まで沸き上がった。膝に顔をうずめ,慣れない感情と無言の時にひたすら耐えていると,
「──やあ,アリサ。聞こえる?」
 調子の軽い,澄んだ声が耳の中に響いた。
 どれほど待ち望んでいたのか。聞き馴染んだ少年の声がひどく懐かしく感じて,涙が出そうになる。
「き,聞こえる。おつかれ」
 思わず口ごもるが,声音だけでも意地を張れば悟られることはないだろう。アリサが精一杯尖った声で返すと,ケイは「ん?」と小さく言った。
「どうかしたかい? そんなに連絡遅かった?」
「どうかしたって,わたしが居るの山なんだぞ。野生動物に気張ってたら急に声したから,びっくりしたんだ」
「なんだ。村へ下りていて良かったのに。僕が後から向かうだなんて言ったからだな」
 ケイは一言「ごめん」と言うと,やや間を空けてこう続ける。
「ねぇ。森にいるなら,今からちょっと出掛けないか? 気分転換に」
「出かける? どこへ?」
 ケイはフフンともったいぶった調子で笑い,言った。
「『龍神の池』さ──」

 龍神の池。
 アリサとケイが住む村に存在する,恐ろしく透明度の高い池だ。アリサが登った山道は紛れもない獣道だが,この小山にも人工的な歩道が存在する。森林浴を楽しむ村人へ向けて作られたこの道は,麓から始まり麓で終わる。つまりは小さな山を無理なく一周できるよう施されている。その道中,山の中には息を呑むほど美しい,曇天の下でも澄んだ青色の池を見ることができる。それが通称『龍神の池』だ。
「何で龍神の池って言うんだ?」
 袖の上から腕を擦り,アリサが尋ねる。小雨はケイと合流するなり霧雨となり,山の中を埋めていた。木々が霞む様子は幻想的なのだが,既に濡れた体にまとわりつく薄い雨水は,二人の体温を徐々に奪う。
 ケイはアリサの背に手の平を当て,答える。
「この村は龍神の加護を受けているんだ。雨が止まない理由はそこさ。龍神が何かの力を行使している間は雨が降り続けるからね」
「ふうん?」
「あの恐ろしいほど澄んだ池は,龍神が住み着いているからと言われている。住み処を美しく保つため,龍神は池の中で力を使い続けているんだ──」
 そこで一旦区切ると,からかうような表情でアリサを見下ろした。
「なんて昔話を聞いたなぁ」
「なんだ。ただの作り話なのか? つまらない」
「他にもあるよ」
 こちらが聞くまでもなく,ケイは楽しげに“昔話”を続ける。
「龍神は現世の水を司る神だけど,もともとは違う神の眷属だから,主人の神様の元へ出向かなきゃいけない時がある。そういったとき,現世の水──雨はどうすればいいと思う?」
「……」
 上目に木の葉を見上げ,曖昧にも考える。非現実な答えが浮かぶが,ケイはそれを求めているのだろうか。
「この世界に自分の子どもを残して,その子に降らしてもらう?」
「その通り!」
 ケイは楽しそうに声を上げた。
「この村には,古くから龍神の血を宿す家系があったんだ。太古に龍神が一人の女性へ血を与え,彼女は龍神が不在の際,代わりに水を操って干ばつを防いだ」
「……」
「その血は代々受け継がれ,今の今までずーっと続いてきたんだよ。兄弟ならば必ず先に生まれた子に龍の血が伝わって,その瞬間,力を行使するのは若い方──生まれた子どもへと引き継がれる。その特別な子どもを,村の人々は『龍の子』と呼んで崇めたらしい」
「──それなら」
 話が複雑ですべては理解できないが,アリサはふと疑問を口にする。
「この村に雨が降り続いてるのは,その『龍の子』とやらが何かしてるからなのか?」
「……そうかもね」
 なぜか,ケイは目を細め,アリサから視線を逸らした。彼が滅多にすることではない。
「ケイ?」
「さっきも言った通り,これは昔話──おとぎ話さ。本当に龍の子が居たかなんて僕も知らない。アリサ,寂しかったみたいだからさ。つい聞かせたくなっちゃって」
「さ,寂しくなんてあるもんか!」
「声の調子変えれば僕を騙せるなんて思わないでね」
 飄々とした笑顔に鼻を鳴らし,「もういい!」とずんずん山道を進む。その間も,ケイの手はずっと背に触れたままだ。
 気のせいなのか,背中に当てられた手が熱を帯びているようだ。お陰で体の冷えは誤魔化すことができるが。
「ケイ。どこか具合でも悪い?」
「え? なんで?」
「手が熱いみたいだから。こんな気温じゃ冷えててもおかしくないのに」
「あー。なぜか僕,あまり体温が落ちたりしないんだよね。しかもずっと背中に当ててるから温かく感じてるんじゃない?」
「ならいいんだけど」
 たしかに,当てられた直後から熱く感じたわけではない。徐々にじんわりと温まっている感覚だった。自分の体が相当冷えているということだ。山の中で雨に打たれながら汗をかいたのだから,当然と言えば当然だ。
 やがて山の小道を進む二人は,木立の合間から覗く鮮やかなブルーを目にする。
「あった! ケイ,早く!」
 アリサはケイの手を引き,小走りに目的地へと急いだ。
「久々に来るな! やっぱいつ見てもキ──」

 二人が息を呑んだのは,ほぼ同時だった。

 小道に寄り添うように浮かぶ,眩しいほどの青。そこに,誰かが異様な姿で屈み込んでいる。
 首がない。霧雨に霞んだ視界で,初めはそう思った。だが改めて見れば,その人物が龍神の池へ頭を突っ込んでいることが分かる。恥じらいのない貧相な衣服と屈強な四肢を見る限り,男のようだ。
「お前,何してるんだ!」
 アリサが鋭く言う。その声に,男は驚いたように勢いよく頭を上げた。青い雫が霧雨を縫い,散っていく。
 角刈りの頭に無精髭。曇天の村で出来上がったとは思えない浅黒い肌。そして荒々しく光る双眸。あまり直視したくないほど強面な,見知らぬ男だ。
「何をやっていた? そこは龍神の池だぞ」
 せいぜい怯えを悟られないように,アリサは目を吊り上げて問う。
 男の口が突然弧を描いた。
「ああ。知ってるよ。だからさ」
「だからって,何が?」
「水を飲んでたんだよ。龍神の力を得るためにな。決まってんだろ,お嬢ちゃん」
 微塵の躊躇いもない男の答えに,アリサは呆然とする他ない。怒りや困惑よりも,ショックの大きさに驚いた。神秘の池を直に飲んで龍神の力を得る? まさか村人の全員がこのような下品な行為を平然と? 自分が知らなかっただけ? そんなことが──
 目まぐるしい混乱に声も出ないアリサの横で,ケイがひとつ息を漏らした。
「馬鹿だね」
 声が冷たく響く。馴染んだケイの声とあまりにも違い,アリサは思わず彼を見上げた。美しい切れ長の目に広がる冷ややかな軽蔑に,アリサの背がゾクリと痛む。
 男も少年が纏う雰囲気に怯んだようだ。獣のような目がわずかに歪み,アリサとケイを交互に見やる。
「ば,馬鹿だと?」
「そうさ。龍神の池なんて,人間が勝手に付けた名前だよ。そこに龍神なんて住んじゃいないし,龍の力もない。ただの自然が生んだ,綺麗な池だ」
「はっ。餓鬼が大人に偉そうな口聞きやがる」
 男の口調に愉悦が帯びる。
「いいか。オレにはこの池の水を飲む権利があるんだ。オレはてめえ等みてぇな餓鬼どもに軽々しく口聞かれていい人間じゃねぇ」
「……」
「どういうことだ?」
 アリサが低く問うと,男は歯を剥いて嗤った。明らかな嘲笑だった。
「オレが龍の子だからだ! オレにはこの村の水を支配する力がある! この村に雨を降らせてんのもオレさ!」
 立ち上がり,唾を撒き散らして高らかに叫ぶ。
「餓鬼は知らねぇだろうが,この池は龍の子のいわば栄養剤だ。力を補給するためのもんさ。だからこうして飲んでんだよ。分かったか!」
 威嚇するように怒鳴り,二人を睨み付ける。想像以上に背が高く,見下ろされると鬼を前にしたような迫力があった。
(こんなやつが,龍の子……? それに,ケイが言ってた龍神の話って,本物なのか?)
 混乱と恐怖で足が動かない。あまりにも悔しい状況だが,今すぐこの男から逃げ出したい。アリサは無意識にケイの袖を握りしめていた。
 その手に冷たい指が触れる。
「違う」
 沈黙を破ったのは,またしてもケイだった。
「……何だと?」
「何を言い出すかと思えば,馬鹿馬鹿しい。あなたは『龍の子』じゃない。ただの薄汚い荒くれ者だ」
「ケイ……!」
「……」
 男の目がふっと静かな色を湛える。そのまま歩を進め,巨大な体がケイへと詰め寄った。
「てめえ,殺されてぇようだな。なぜそんなことはっきり言える。てめえみてぇな糞餓鬼に龍の子が分かるはずが無ぇ」
「分かるよ」
 迷いのない答えに,男の苛立ちが膨らむ。
 それでもケイは落ち着き払った声で,こう言った。
「龍の子が誰かくらい,はっきり分かる。だって──

僕が,龍神だから」

★続く