見出し画像

内子町並み保存期 1970-1985年

現在、「内子町といえば?」と近隣地域など外部の方に質問すると、「内子座」「古い町並み」と答える人が多い。内子町の古い建物を残す活動が印象付けられている証拠でもある。しかし、いつからそんなイメージがついたのだろうかと言われると意外と40年前ごろからである。それ以前は鎌倉や金沢のように古都の印象がある地域とは言い難い田舎町だった。

そして古都のイメージがない地域でこの半世紀、高度経済成長やバブル崩壊など、さまざまな国の方針の転換、スクラップアンドビルドの風潮により、古い建物を残すという選択肢は簡単ではなかった。

京都や奈良のような古都として名高い地域は、寺社などの歴史的空間の存在が色濃く残っており、地域住民、ひいては国民が「古いものは残すべきだ」という前提があっての保全活動だった。しかし、それ以外の町並み保存をしてきた小樽から竹富島までの日本各地での取り組みは全く別の道を歩んできたことになる。

内子の場合も他地域の町並み保存運動の例外ではなく、町並み保存や文化的価値に詳しい人がいたか、と言われるとあまりいない地域であった。内子にある町並みが本当にいいものかどうか、誰もわからないところからの出発だった。

近代化の波が最高潮となっていた高度経済成長期に、いかにして内子の地域資源を発掘し、いかにして内子町で町並み保存が始まったのか。きっかけ、発端などをまとめる。

「町並み保存のきっかけ」1971年-1978年

ここでは町並み保存をする背景となった社会情勢と、内子での起こりをまとめる。

社会背景「農村部から都心部への人の流れ」

1965年ごろから日本人はキツネに騙されなくなったらしい。哲学者内山節の言葉である。一見ユニークな論調であるが、当時の日本の農村をよく表す言葉だ。生活スタイルの変化が目まぐるしいく起こった。1950年代後半に燃料革命により、炭の需要が著しく低下した。また、1960年代に家庭の電気化、農業の機械化がおこり、薪からプロパンガスや灯油へと転換していった。1960年代を境に農村部の学生たちは就職先として都市部を志すものが増えた。ちょうど高度経済成長期でもあり、都市部の人手不足も相まって、農村部から都市部への人口の移動が流動的になった。1965年前後に一気に日本の農村部はこれまでとは違う形になってしまったのである。と同時に仕事や収入源が一気に田舎から消えたのもこの時期で、圧倒的な都会への人口流出が起こった。田舎から外に出ることがいいこと、都会は素晴らしいものという「田舎コンプレックス」が生まれたのもこの頃かもしれない。

農村部には観光しかない

1970年代、大分県の廃れた温泉地、湯布院の取り組みが注目を集めるようになっていた。寂れた温泉地の3名の旅館の若旦那たちが、ドイツの農村部への視察を行い、農村型の観光地にしていこう、という取り組みがなされていた。

当時、日本人の風潮として、田舎も都市化しなければならないという風潮があった。そのため、煌々と光る街灯をつけ、木造の民家を壊し、コンクリートの公共施設がどんどん林立した。そんな中で、湯布院が行った運動はある意味、農村の農村らしさを売った観光業だった。湯布院は大成功をおさめ、かつては10万人前後しか来なかった観光客が2021年現在では500万人にもなっている。農村の主産業であった、1次産業が衰退の一途を辿り始めた頃、打開策として注目を集め始めたのが、3次産業の観光業だった。その取り組みが芽吹いたのが1970年代である。

 観光資源としての歴史的価値-大ブームとなった妻籠、高山-

1970年初頭から、農村らしさだけでなく、古き良きものを残していこうという運動が全国各地で活発になった。大きな都市では倉敷や鎌倉、中山間の地域だと、妻籠や高山が脚光を浴びることになる。 これが「町並み保存運動」と呼ばれる

内子の町並み保存の芽吹き

1966年、NHKの連続テレビ小説で隣町の大洲が舞台となった。内子町の地元住民からすると、内子はどんな町?と聞かれると、「大洲の隣町です」というのが、内子の説明だった。

1970年代の初めから文化庁や建築学会が中心となり町並みがどこにあるのかを探る機会を作っていた。内子町役場も集落町並み調査第1次調査票を愛媛県教育委員会に提出する運びとなった。これが内子の町並み保存の最初の行動である。提出後、文部省の担当技官が、集落町並み(内子町八日市)調査のため来町する機会を持つことになった。

内子の町並み保存のキーマン登場

また同時期に住民からの動きもあった。八日市に暮らす画家の井門敬二さんが、内子の町並みは素晴らしいのではないか、と提唱するようになる。井門さんは教員をされる傍ら、愛媛県の教育委員にも携わっており、文化的な活動に関心があった。

また、内子町役場としても、当時流行になりつつあった古い町並みを作り上げていくことに関心があった。その中でも1人だけあげるのであれば、当時、教育委員会に所属していた岡田文淑だ。

当時岡田氏は、全く町並みや文化に詳しくなく、むしろ労働運動を行なっていた人物だった。内子町役場の残業代が出ておらず、残業代の捻出に成功したのが、20代後半の頃の岡田氏であった。労働運動を行う中で、役場職員の雇用主は、内子に暮らす住民であることに気付いたという。そして内子町内の住民が都市部に流出していく現状をどうにかしないと、自分の給料が出なくなると考えていた。

第1次産業、2次産業が大部分を占めていた内子に第3次産業を作っていくことが重要であると考えた岡田は、歴史的な町並みを売りにした観光を推し進めていく。 

研修視察、伝建地区に向けた機運の高まり

町並み保存に全く知識がなかった岡田氏は、全国各地の町並み保存の先進地に出向くことになる。特に妻籠にはよく出かけた。妻籠は江戸期の中山道沿いの宿場町である。町に立ち並ぶ建物群は内子の町並みの豪勢さに比べて、裕福な街ではなく、簡素な木造の建築物が街道沿いに並んでいた。また、立地はかなり山奥だった。山奥の簡素な木造建築の立ち並ぶまちに人が押し寄せている状況は、驚きとして突き刺さったという。「妻籠にできて内子にできないわけがない」内子が目指すべき道のりは第二の妻籠であることを確信して帰ってくる。

岡田氏は時の町長に、内子町予算で妻籠と高山のバス代を捻出してもらい、教育委員会のメンバーや、八日市の住民と研修視察に向かった。これ以降、地元の方とのたびたび、視察研修を行うことになる。

視察研修はそれまで興味のなかった住民も、町並み保存が良いことなのではないかと、少しずつ思うようになっていくきっかけを作っていくことになる。また、内子の町が全国の町並みに比べてどれくらいのものか比較する機会となり、内子の町並みの質を高める活動につながることになる。


研修の年表
1974年 高山(岐阜)、妻籠(長野)、内子町教育委員会が視察
1974年 倉敷(岡山)、内子町文化財専門委員会が視察
1974年 高山(岐阜)、妻籠(長野) 商店街役員会が訪問
1975年 南木曽町、高山市視察 20名
1976年 議会町並み保存委員会、妻籠宿・高山市町並み保存視察(16名)
1976年 第2次妻籠・高山視察旅行(21名)
1977年 宇和・城川郷土資料館、町並み保存会、町並み研究会合同で視察
以降、年に2回現在まで行っている。

出典:内子の町並み年表

町内の制度体制の変遷

視察、研修を通して、町並み保存のやる気を出すとともに、町を上げて、町並み保存をしていこうという体制づくりにも取り組んだ。1974年、まずは内子町の教育委員会と、内子町文化財専門委員会が合同し、内子町八日市周辺町並み保存の今後の取り組みついて協議することとなる。その旨を内子町長に提出するとともに、重点的に町並み保存運動を行っていく範囲を仮の景観保存地区を示すことにした。

町長への提出とともに、まず内子町の予算の中に文化財保護費を新設し、町並み調査費を計上した。予算は10万円と十分な予算ではなかったが、伝建選定の予定地である八日市地区世帯主への意識や実情をアンケートする費用に当てられた。

 商工観光係の発足

1976年には町長を口説き、町長事務部局に新しく商工観光係を配置した。全国の伝建地区のそのほとんどが教育文化系の課に属する。内子の目的はあくまで3次産業化だった。そして広く、住民と観光地を作り上げる。その決意が商工観光係の設置につながった。内子の町並みの文化財行政から地域開発行政に移行の時である。

また同年1976年に、役場だけでなく、内子町議会にも町並み保存を検討するために、町並み保存委員会を設置した。民間の意見を取り入れた、町ぐるみの体制を整えた。

 内子流の観光

 ここでいう観光に関しては1つ、現代人のいう、観光とは少し意味合いが異なるかもしれない。観光といえば、旅行と同じような意味で取られるが、少し違う。

内子流の観光は、その土地で王様のような来賓があっても案内し、もてなしができるようなもの、とされている。その土地(国)で光り輝くものを見ることと書いて、観光だ。旅行先で行く、行ってみたい、食べてみたい、そういったものが、国賓級であるものを観光とよび、そういったものを作っていくことを「観光まちづくり」として、内子町では取り組んでいくことにした。旅行客をいかに呼んでくるか、よりも、国賓級がきたときに自慢できるものを作り上げていこう、という観光施策である。

決して、いい動画、いいポスターを作って、人の興味を惹く広告業を求めたものではない。

 観光はおもてなし

 また、観光はおもてなしを原点としているところも押さえておきたい。挨拶ひとつ、お土産ひとつ、ご飯1つに国賓級を目指そうというのが内子で追い求めたおもてなしだ。また、だからと言って、VIPが止まるようなシティホテルを建てるのではなく、農村のおもてなしを求めた。おにぎりや野草の天ぷらでも、気品があれば、国賓級になるという捉え方である。

普段の暮らしの延長線のおもてなしが国賓級の気品がある、そんなおもてなしのことを観光と呼び、それらが集まった地域を観光地とした。言い換えれば、内子の観光地への道のりは、おもてなしの延長にある。

 度重なるメディアへの掲載

 住民にとって、地元にある風景や風味、方言の素晴らしさというものは当たり前なものであり、良さに気づきにくいものである。気づくきっかけの1つにテレビや新聞、雑誌といったメディアに取り上げられることが挙げられる。

 内子の場合でもメディアへの掲載は町並み保存運動の機運を高める上で、重要な役割を担う。1975年朝日新聞社発行「アサヒグラフ」において、内子町八日市町並みが掲載された。全国25カ所の町並みを紹介する企画に内子が選ばれたのである。1975年と1976年は雑誌やテレビといったあらゆる媒体で掲載されることとなる。1,2誌であれば偶然かなと言う気になるが、ここまで重なれば、「この町並みはすごいのだ」と、気づくきっかけになった。雑誌掲載の影響は内子の住民に止まらなかった。近隣の地域からの羨ましい目線や、ちょっと行ってみようという気を誘い、ひいては観光客の獲得にもつながった。

町並み保存初期の主なメディア出演など

1975朝日新聞社発行「アサヒグラフ」で内子町八日市町並みについて掲載(全国25カ所)
1975 えひめ生活通信において、内子町八日市町並みについて掲載
1975 新愛媛新聞社、内子の旧街道を掲載
1975 月刊女性愛媛において内子町八日市を掲載
1975 毎日新聞社、「日本の町並み」で内子町八日市を紹介
1975淡交社「歴史の町並」で内子町八日市を紹介
1976 読売テレビ「遠くへ行きたい」全国放送
1976 小学館発行「週刊ポスト」で内子町八日市を紹介
1976 NHK「あなたの中継車」で内子町八日市紹介
1976旅行読売出版社「旅行読売」5月号で内子町八日市を紹介
1977 松竹映画「坊ちゃん」ロケ

フォトコンテスト

 1976年、住民の町並み保存への意識を高めるために、町並みを対象としたフォトコンテストを実施した。普段、見慣れたまちを改めてレンズを通して見ることで、見直す機会となった。また、外部の観光客に写真を収めてもらうことで、普段とは違う視点で見ることにも繋がった。

1977年高山栄華御一行の訪問

 1977年、内子町の隣にある大洲市に時の都市計画家・高山栄華氏が来た。その際、東京大学工学部都市工学科の優秀な学生やOBもくる運びとなった。法政大学の総長として大学の改革に取り組んだ清成忠男、千葉大学名誉教授となる木原啓吉さん、地域開発センター岡崎昌之さん、コンサルティング会社CSK地域総合研究所の森戸哲が集った。

中でもCSKの森戸さんは今後の内子のまちづくりで非常に重要な人物となる。森戸さんは内子町役場と各専門家、コンサル会社のパイプとなった。内子で作る総合計画や観光計画、開発計画などの計画書の素案を東京にいる専門家達にチェックしてもらっていた。誰に計画書を見せたらいいのか、どのコンサル会社と一緒に仕事をすれば良いのか、そういった相談役の中心をおよそ30年間続けることになる。

大洲市で行われたシンポジウムで機会を掴み、人脈を作り、今後のまちづくりに繋げたのは皮肉にも内子町だった。

町並み保存、住民運動の芽吹き

1977年、内子町内の郷土史家8名による「町並み研究会」を発足した。町並み研究会では、内子の町並みの特徴を取り上げ写真に収め、木蝋資料の収集などに取り組んだ。住民の自主的な動きが出てきた時期である。

「いよいよ、町並み保存」1978年-1982年

内子町でざわつき始めた町並み保存への動きが形となっていく時期となる。

専門家として誰に携わってもらったか

内子の町並み保存の体制を作る上で専門家の立場で重要となるのが、広島大学工学部鈴木充先生だ。

八日市護国の町並みを調べ上げ伝建地区の選定に向けて動いた人物である。1977年、内子町は鈴木充教授を調査班長に「内子町八日市周辺町並み保存対策協議会」設置する。翌1978年、鈴木先生を中心とした伝建地区保存対策調査の報告書が完成する。これをもって、伝建地区の選定に乗り出すことになる。

他の先生方とも交流があった。1978年町並み保存連盟が「第1回全国町並みゼミ」を開催する。内子町も参加する運びとなった。そこで木原啓吉に紹介してもらい、全国の町並み保存に関わるメンバーと知り合いになる。担当職員が全国的に講演会やシンポジウム、ゼミナールに参加することで人脈を作り、専門的な目線の入ったまちづくりを展開させていくことができたのである。

 内子町独自の条例要綱を作成

内子ではさまざまな制度の整備が必要となった。1981年愛媛県知事からの都市計画の承認を得たことで、都市計画的な規制をかけることができた。都市計画決定は噛み砕くと、その土地の数十年後までの用途を確定させ、その用途に見合った空間に変えていくことを決定させたことに値する。

その後、伝建地区の規則を定めた「内子町伝統的建造物群保存地区保存条例施行規則制定」、建物以外の構造物の補助を定めた「土塀・板塀等設置奨励補助金交付規定制定」を制定した。

その手続きを踏まえ、文化庁に「内子町八日市護国伝統的建造物群保存地区保存対策費補助金交付要綱制定」を公布した。翌1982年、八日市・護国町並み保存地区が重要伝統的建造物群として選定されることになった。1971年の愛媛県の教育委員会への提出から、丸10年をかけて国の選定にたどり着いた。

初の修理工事

初の修理工事は大工さんが暮らす住宅の屋根の瓦工事だった。当初、住民の中には、役場のお金を使って工事をするということは、いつか家が没収されてしまうのではないかと、危惧する声も多かったという。1つの実例を作ることは住民にとって、大きな安心材料となった。当時は国からの選定がされていない状態だったため、内子町独自の補助体制での修理事業となった。

国の選定を待ったタイミングでの事業も良かったかもしれないが、早めに実例を作ることで住民の理解を優先した選択だった。以降、年表のように修理物件が増えていくことになる。

瓦を修理工事以降、自分の家がなくなる不安が消えていき、徐々に修理を始める物件が増えていった。

上芳我邸、喫茶

 町並み保存をするにあたり、拠点の整備が不可欠であった。モデルとしていた妻籠では脇本陣奥谷だ。住民が集まる場所として、また、来訪客をもてなす場としての拠点が必要となっていた。内子の場合、木蝋で栄えた上芳我邸を拠点にすることにした。1979年、上芳我邸を持ち主から賃貸で借り、3階で喫茶を始めた。1年前から奈良女子大の住居学を専攻していた学生にコーヒーの淹れ方を学ばせ1年の練習期間を設けた。担当の岡田は喫茶店を200店舗以上、リサーチしたという。古い木造の学校の椅子や机を持ち込んだり、した。

外部資本の到来

 観光地としての盛り上がりを見せる中で、外部から利益を求めて営業を始める店舗が相次いだ。利益を求める店舗は派手な看板の設置や、内子のものとは関係ない産品を売っていた。その度に町並み保存会や住民で、店先の看板の規制や町並み保存運動の経緯を説明した。中には店を閉じる店舗や、居座る店舗、改心して装いを新たにした店舗と変化した。町並み保存から約半世紀経った現在はかなり淘汰された店や住民が軒を連ねている。

 制度での規制と合わせて重要なのが、一対一での会話や、相談である。繰り返し行われるやりとりの中で徐々にその街並みの個性が現れてくる。その会話の質が、街並みの質へと繋がるのだ。制度の整備で怠けたり、話してもムダという判断をした時点で個性的な町からは外れ、凡庸な町の始まりとなってしまう。

町並み保存期まとめ

 単なる片田舎であった内子町がいかにして、町並み保存を行ってきたかみてきた。住民運動と役場、議会の町内の体制づくり、町外の専門家や文化庁とのやりとりを経て、形を作ってきたことがわかる。そこには労働運動を行っていた役場職員の岡田文淑氏のリーダーシップと住民がしっかりついてきた構図が成功へと導いたと言える。また、誰もが素人の中、先進地であった妻籠に足繁く通いモチベーションを上げたところ、わからないことを聞く先として、東京大学周辺のエリートな専門家たちに意見を求めたところなど、士気 (モチベーション) をあげることと質(クオリティ)の高い町並み保存運動を志していた初期の動向が、今後の町並み以外の展開でも生かされてきたり、息の長い活動へと繋がっていく理由となっているのかもしれない。

よろしければサポートお願いします。お金は地元小田のまちづくりの資金に使います!