第1章 研究背景


この節では研究に至った身近な問題意識を示す。 
まずはじめに1項では現代、身近に感じる生き方や働き方への疑問を示す。 打開策の選択肢としてのまちづくりを挙げ、現状のまちづくりとその課題を示す。 生き甲斐や働き甲斐の疑問、まちづくりへの疑問が1945年の終戦を転機に生まれているのではないかと仮説をたて、戦後の現代史と日本の変化を都市と農村の観点を含めて示す。 

1-1. 働きかたへの疑問 

 日本では働き方や生き方への疑いが特に若い世代で増えている。 近年では離職率が高まっている。2017年に卒業した新規学卒就職者の3年以内の離職率の平均は大卒で32.8%、高卒で39.5%だった。およそ、3人に1人が3年以内に入社した会社を辞めている計算である。この統計は昭和62年から取られており、ほぼ横ばいで推移している。 言い換えれば、バブル崩壊後の日本では、3年以内に3人に1人が離職している。

 転職ということは失業者も多い。2019年、平均の失業者数は182万人だ。仕事につけいない理由では「希望する種類・内容の仕事がない」がトップで、各世代の約25%を占める。 

 加えて、非正規労働者も2009年の1727万人に対して、10年後の2019年には2,165万人に増えている。日本の平均就業者数をもとに割合を示すと、5,660万人(2019年)の約38%の数に当たる。 

バブル崩壊後の現在、日本人や若者の多くが転職を繰り返しながら生計を立てている。加えてこの10数年は非正規労働者が増え、自由な働き方の渇望がみられる。

 参考:厚生労働省ホームページ「新規学卒就職者の離職状況(平成29年3月卒業者の状況)を公表します」2021年6月29日アクセス 
総務省「労働力調査(詳細集計)2019年(令和元年)平均(速報)」 

 経済力が衰えてきた日本 

 日本は長らく、「経済大国」と呼ばれてきた。日本の戦後経済を支えたのは朝鮮戦争の特需にある。1969年にはGDPベースで世界2位の経済大国になった。 以降、1995年ごろまで順調な推移を見せるが、95年以降、ほぼ停滞期に入り、2008年に中国に経済大国2位の座を譲ることになる。以降、中国は日本と差を開き続け、2020年には日本の2.7倍の経済力となっている。 

また、この30年間、平均所得はほぼ横ばいとなっている。消費税は3%から8%、10%にあげられ、所得が一定だが税金は増えており、相対的にお金を持ち合わせていない。 特に若者は金銭を持たず、シニア世代はお金が蓄えられた世代とも言える。先述のように非正規雇用も増えており、ますます、懐にお金がない人が増えている。 年金問題に関しても、若者の間では老後はもらえないのだろうという悲観した見方も多い。 お金をたくさんもらうことよりも自分のペースで好きなことを重視したい若者が増えている。 

 参考:古市憲寿『絶対に挫折しない日本史』2020 

 東日本大震災を契機とした地方暮らしの高まり  

2011年3月、東日本大震災が東北・関東地方を中心に日本に被害をもたらした。都市機能の麻痺は特に関東で働く人々に大きな影響を与えた。 スーパーからは食べ物がなくなり、日本各地の人々は関東に住む親戚に救援物資として食料を仕送りした。 地下鉄、バスなど公共交通機関も、おおよその復旧に2日間を要した。 原子力発電所のメルトダウンも、自分たちの生活を根底から脅かす存在として、脳裏に焼きついた。計画停電は原子力発電への依存や、根本として普段の生活が、電力へいかに依存しているかを知る機会となった。 また余震も続き、高層ビルがぐにゃぐにゃと揺れる姿を肌で感じた東京圏の住民も少なくない。

 福島県などの原発の直接的な移住に加えて、都市部での暮らしへの疑問を抱き、都会から地方への人の動きや風潮も少し高まった。 震災後の2012年6月、地方暮らしの素晴らしさを多くの若者に知って欲しいとの思いから誕生した雑誌「TURNS」は2021年現在、発行部数約6万部となっている。 駅のKioskや歯医者の待合室などで見かける朝日新聞社の雑誌『AERA』が69,825部(2019年1-3月)と、及ばないまでも、地方暮らしへの関心を伺わせる。 また地方移住の統計データとして、2020年に1万人を対象に行なったアンケートによれば、東京圏(東京、神奈川、千葉)に住む49.8%が「地方暮らしに関心を持っている」と答え、その割合は若年層になるほど高まっている、としている。 

まち・ひと・しごと創生本部事務局『移住等の増加に向けた広報戦略の立案・実施のための調査事業 報告書』 

 新型コロナウイルスの気付き 

 新型コロナウイルスの影響で、一番身近だったのがオンラインでの会議が増えたことだ。また、各国の方針も個性が出た。日本ではロックダウンのタイミング、ワクチンの提供、オリンピック開催の有無など、国民の安全性よりも経済性が重視された政府の対応が露わになった。

先述の通り、もはや経済性も素晴らしかったと手放しで褒める人はほとんどいない。政府への不満と諦めが募る機会となった。 

民間では旅行業と飲食業が大打撃を受けた。特に飲食業界は個人の飲食店やチェーン店でさえ、閉店に迫られるケースも少なくなかった。駅前の安さや利益重視の飲食屋が見直される運びとなったと語る専門家もいる。

 また大きな生活の変化としてリモートワークが進んだ。自宅での仕事や場所を選ばない働き方が増え、通勤時間の節約につながった。それとともに会社から服装の指定などの制約をはじめてして、働き方の決定権が、より労働者側に委ねられる形となった。

 賃金よりも生き方を選ぶ人々にとってリモートワークは良い機会となった。通勤時間から解放されたり、旅行先からも仕事ができるようになるなど、自由に使える時間が増えた。

移住者の増加

自由時間が増え、自分のこれからの生き方を見つめ直し、新たな生活を始めようとする中で、地方移住を検討する人も増えた。

移住者の数は増加傾向にある。愛媛県庁は2020年度の県内への移住者数が前年度比29%増加し2,460人になったと発表した。都会のストレスから抜け出して、田舎でのんびりしながら生きていこうという動きである。

移住者はたくさんある田舎を選び放題である。自分が魅力的に感じる場所を選び、住む場所を決めている。

参考
日本経済新聞「愛媛県への移住者、2020年度は29%増加 今治など伸びる」https://www.nikkei.com/article/DGXZQOJB117420R10C21A6000000/ アクセス日 2021年6月11日

働き方の答えの模索

現在、働き方に疑問を持つ人々が増え、東日本大震災や、コロナウイルスを経て、その動きは加速傾向にある。ではなぜ、疑問を持つような働き方の世の中になったのか、その答えは戦後現代史の中に潜んでいそうだ。


1-3. 戦後現代史の振り返り

 教科書は現代史を
 やる前に時間切れ
 そこが一番知りたいのに
 何でそうなっちゃうの?

 サザンオールスターズ「ピースとハイライト」

 日本の戦後現代史を農村の視点を中心に、経済、農業、林業、建設業、2次産業の分野から振り返る。 

 日本の産業革命と資本主義 経済の変化 

 日本の戦後の取り組みを語る上で経済的側面は切っても切れない。1950年から1953年まで続いた朝鮮戦争は軍事物資や特別な需要は特需と呼ばれ、朝鮮半島を北朝鮮と大韓民国に分断した、社会主義と資本主義の戦いはアメリカの武器需要を生み出し、立地的に近い日本に多大な生産需要を作り出し、大小の工場と仕事を日本にもたらした。工業を急速に発展させた。太平洋沿岸の工業地開発の発展につながった。また会社員の増大にもつながり、1973年のオイルショックまで数が増大した。 

 1956年の『経済白書』に載せられた「もはや戦後ではない」という言葉が流行したように、戦前の経済水準まで回復する。大企業が生まれ、サラリーマンの台頭も朝鮮特需の頃から始まる。会社に属し、一定の時間、会社で働くことで毎月決められた報酬を得られる。その以前から、時間給や、固定給の制度もあったが、この仕事をしたらこのお金がもらえる、といったように、時間に対してではなく、仕事の成果に対しての値段がつけられる方が主流だった。 

朝鮮戦争以降は公共投資が経済を支えた。インフラ整備が全国各地で進められた。道路整備では砂利道から山奥までアスファルトが敷き詰められた。高速道路も大量に建設された。四国、九州、北海道を結ぶ連絡橋もかけられた。トンネルや橋のインフラ建設は現在も進んでいる。1964年の東京オリンピックや、1970年の大阪万博もインフラ整備の加速化を手伝った。

 また、水道整備も進んだ。1950年の水道普及率が26.2%だったのに対し、1980年には91.5%と30年間で急速に普及した(2019年現在は98%となっている)。井戸水が主流だった田舎でもほとんど水道水が使えるようになった。 

また、公共施設の建設も進んだ。かつて、木造が主流であった、村役場や小中学校といった教育施設は耐震化の名のもと、経済的コストのかかるコンクリート化が進んだ。10億円数十億円規模の図書館や文化ホール、体育館も全国各地に作られた。 

公共投資は、道路、ライフライン、公共サービスをハード面で整備し、生活を便利にすることで、日本経済を支える一翼を担った。 

民間レベルでも、経済優先の選択が目立った。飲食物、物品、あらゆる分野で工業化が進んだ。大量生産、大量消費が主流となり、薄利多売が進んだ。

住民がどんどんお金を持つようになり、特に都市部では1960年代にはテレビ、エアコン、洗濯機の3種の神器と呼ばれる電化製品が各家庭で所有できるほど裕福になった。

日本経済の歯車が狂った 1989年からのバブル崩壊以降も、大きな産業形態や、公共投資の方針は変わらない。

ハード整備に加えて、サービス業への投資では、I T化やコミュニティ運営、コンサルティングという名のカタカナ言葉のマネージャや、アドバイザーにお金を渡すことが多くなった。

 農業の変化

 戦後、日本の農業は大きく転換した。1946年から勧められた農地改革だ。豪農から小作農への用地の売買は、朝鮮特需などのインフレに対して、相場の据え置きがなされた結果、数百円単位で、田畑が売却され、事実上、土地を分け与える形となった。

小作農たちは農業をする人もいれば手に入れた土地を大企業に工場や道路建設、公共施設の用地、住宅地開発の用地として売買し、金銭に換金する農家も出てきた。郊外のショッピングモールや、ロードサイドショップの建設、住宅地の急速な拡大に加担することになった。 

また、農業も大量生産の波が押し寄せた。第2次産業と第3次産業の利益の追求も影響し、農業も利益追求を推し進めた。1960年代に入ると、機械化が進み、一人当たりの耕地面積は拡がった。また農薬散布や化学肥料の投与も手伝い、大量生産に成功した。

農協(JA)も1960年代から、計画的生産を各農家に指導し、計り売りを推し進めた。地元の固定種の存在は薄れ、農薬化学肥料まみれの野菜を大量にスーパーマーケットに卸す、今日の薄利多売の農作物事情が確立した。 

日本の農業は、利益の追求による機械化と、農薬、化学肥料の投与で野菜本来の味を失った農作物が大量に出回り、加速化した農地の売買によって、かつての農村景観は広範囲にわたって失われた。

 林業の変化 

農山村の人々が暮らす人里の裏手にある山にも大きな変化が出てきた。その背景には林業施策をもう一度見つめる必要がある。

 1956年より、拡大造林事業が始まった。これらは都市部に肥大化する人口に向けた住宅供給の施策であり、建築材料として使われる、スギやヒノキを植えた山主にはお金がもらえるといった内容だった。お金がもらえることと、住宅供給をしなければならない大義名分は全国各地の山主たちに木を植えさせた。かつて、日本の山でもスギヒノキの植林事業はあったが、吉野杉や秋田杉などの山地に限定されていた。平成8年まで続いた拡大造林は、かつて雑木林だった自然林は針葉樹が所狭しと並ぶ、人工林を増大させた。

拡大造林の時期は燃料革命の時期とも重なる。かつての日本人のお風呂や料理で欠かせない火力を担保していたのは炭や薪であった。しかし、1950年代から都市部で電気、ガス、石油の利用が進み始め、1960年に入ると農村部にも広がった。クヌギやカシの生えていた雑木林は不必要となっていった。それが人工林化を検討する山主たちを後押しし、雑木林は人口的な針葉樹林に置き換わった。

また、日本の山村の暮らしを支えた焼畑農業も1950年代を境にパタリと行われなくなった。焼畑は、山に山菜や木の実を落とし、住民たちだけでなく、山に暮らす獣たちのエサ場となった。およそ20,30年のサイクルで山の各地を巡回しながら、豊かな山林環境を育んだ。これらも人工林にとって変わった。獣害問題が取り沙汰されるのは1980年ごろであり、焼畑のサイクルで考えると、1950年代の焼畑が成熟しきった頃である。エサ場が無くなった獣たちが人里の田畑を荒らし、農家の生計を逼迫している。猟師たちが獣害被害を収めようと、山に登ってはいるが、全く歯が立たず、人と獣の戦いは人側の後手後手の攻防となっている。

植えられた人工林だったが、安い外国産の輸入により、経済的価値を持たなくなった。価値を失ったスギヒノキは放置され、放置林として暗闇の森を作り出している。暗闇の山は山の保水力を著しく低下させた。針葉樹のスギヒノキは根が1m程度と浅い。また、葉も小さいため光合成の効果も小さい。山全体の保水力と酸素供給は著しく低下している。

この現象は洪水や大雨、土砂崩れをもたらしている。地球全体の水の総量は変わらないが、山の保水力が下がったことで、待機中の水分量が増えた。雨の量が増えることを意味する。また、広葉樹や雑木林の根は山の深くにある岩盤まで根を生やし、岩盤に主根を突き刺し、側根や毛のような細かい根を土中に張り巡らせることで、大雨の際の土砂崩れを防いだ。対して、人工林の根を深く張らない針葉樹のスギヒノキは根が地表の土が柔らかいところにとどまる。大雨の日に大量に土砂が川に流れ込み、時には根こそぎ倒れ、土砂崩れを起こす。

土の混じり気の多い水は飲み水にも影響する。私たちの飲み水は山の水を浄水場まで送り、濾過させ、水道管を通り、各家庭の蛇口に到達する。濾過の過程で混ぜる塩素等は、混じり気が多いほど相対的に多くなる。それらの物質は浄水タンクの地下に沈むが、各家庭への供給量が多くなると、そこの水まで使わなければならず、自ずと塩素濃度が濃くなる。よって、そこにある濾過の過程で使用する物質が混じった水が、各家庭に排水され、特に供給量の多い都市部の水道水は不味くなる。水の供給量を減らすか、濁りを減らすことが、解決策となりうる。

林業を取り巻く環境はこの6,70年で大転換した。そのことにより、大雨、洪水、土砂崩れ、獣害被害に水道水の質の低下をもたらしている。
現在の日本の人工林と自然林の割合はであり、原生林は屋久島や白神山地などの世界遺産レベル以外はほぼ全滅状態となった。

危機的な山の環境を変えることが、人々の生活にとってもプラスなことである。

 第2次産業の変化 建設業 

建設業の変化として、大工が減っている。また、新建材が徐々に集まり始めている 建築材料が国外での加工を必要とするため、材料を求めなくなった。主に木材や、竹材が使われなくなったと言える。 住宅建設は空襲による住宅の減少や都市人口の増加に伴い、「住宅生産」という言葉とともに、従来よりも安価で早く、大量に住宅を供給することを目的としていた。工場で作られた、ネジや、アルミサッシ、フラッシュ戸、効率的なガラスなど、工業製品が住宅の材料として使われるようになり、それらは「新建材」の呼称で全国に急激に広まった。

また、新建材の多くは輸入に頼ったものであり、加えて安価な木材を東南アジアなどから仕入れることで安く住宅を作ることに成功した。その裏で、これまでの日本で培われてきた伝統工法の住宅建設は確実に減った。カタログから建築材料や設備を選び、当てはめていく住宅設計が主流となった。 第3次産業の台頭で日本の大工の減少を生んだ。1980年の93.7万人の大工の人口は35.4万人まで減少した。また、新建材の台頭による工程の簡素化で大工の質の低下を生んだ。 利益目的の建設プロジェクトも止まらない。地価の高い都会では経済的な価値の低い古民家やかつての大邸宅が次々と壊され、代わりに新建材だらけの高層ビルが立ち並ぶ。

少子高齢化や人口減少が叫ばれる昨今でも、東京の郊外や、ウォーターフロントには高層マンションの建設が止まらない。経済的価値のない空間に対する厳しい方針は私たちから、良質な空間を奪い、高層ビルや商業ビルを生み出してきた。 それらの動向は大量な空き家と老朽化したコンクリート造の建物の莫大な解体費用を次世代に負の遺産として残す結果となっている。 

 第2次産業の変化 ものづくり

ものづくりの分野でも薄利多売が進んだ。1950年代の朝鮮特需は膨大なサラリーマンを産み、大企業を産むことになった。大企業の維持には多大なコストがかかるため、原料の価格を押さえ、大量生産することで、1つあたりの加工のコストを下げることを目指した。結果として、手工芸から工業製品への移行が進んだ。 

安く大量に生産された製品を作った企業は、消費者にたくさん買ってもらうために、たくさんの広告費用を注ぎ込んだ。テレビCMやビルの看板、電車の吊革広告にインターネット内の広告など、2次元と3次元の世界の至る所に宣伝がひしめき合う世の中になった。

 消費者の消費行動は進み、ちょっとした買い物が多くなった。空き家の掃除をすると、結婚式の引き出物や、安っぽい飾り物など、こんなもの使うのかというグッズが大量に出てくる。家は住む場所から、ものをしまう収納機能がどんどん増えた。

消費行動が増えたことにより、大量のゴミを産むこととなった。かつての竹細工や木材の手工芸とは異なり、大量生産の主流となったプラスチックは土に帰りにくい。大量のゴミ問題も次世代へと残す結果になっている。 

 第3次産業の肥大化

 これまでになかった経済の肥大化は、維持するために雇用や仕事を生み出すことを必要とした。解決として、かつてはお金にならなかったことを仕事として生み出すことで、雇用を産んだ。第3次産業の台頭である。

テレビやインターネットの普及に伴い、広告業が圧倒的に増えた。作ったことを売り込むことに重点を置く、伝えるのが上手いことを売りにした、デザイン会社や広告代理店も増えた。営業競争が活発化することで、敏腕のコンサルティングやアドバイスが必要となり、お金をとって専門的な知見を言う人々が出てきた。デザイナーやビデオマン、写真家にコンサルタント、代理店、芸能人。ものを伝える職業が戦後の76年で目覚ましく増えた。 

また数日から数週間あれば、誰でもできるようになる簡単な作業を、アルバイトも増えた。 仕事を増やすことが我々の生きる道になったことで、多用途な拡がりを見せた。 

 都市と農村、都市化する農村 都市という言葉と田舎という言葉がある。これを私なりに解釈すると、都市は消費地で、田舎は生産地である。 田舎にある材料や農作物あるいは加工品を都市に運び入れ、2次加工し、あるいはモノの売り買いで都市内の循環を生み出した。

 また展開として、自分たちの都市で得た特産品を他の都市に売ることで富を生み出した。 都市は田舎から来たモノの集積地であり、拠り所であった。言うなれば都市が発達するには、集積としての田舎の文化が育たなければならなかった。小さな都市が集まって、藩ができ、国を形成した。 オギュスタン・ベルクは、都市と農村の結びつきはヨーロッパのそれに比べて深いと記している。日本の書物と、ヨーロッパの芸術文化の両側面の知識をもとに、ヨーロッパと日本の風景の比較と影響、これからの展望を書き記した、『日本の風景・西欧の景観』の中でそう記している。 

 しかし、日本の田舎は都市化したと言ってもいい。燃料として生産されてきた、炭や薪、カゴや内壁に使われていた竹は、中東から取れる化石燃料にとって変わった。都会は田舎がなくても海外という生産地を手に入れた。今の日本には生産地としての田舎はかなり薄らいでいると言える。 逆に、田舎の家庭にある家電や、家具、調理器具におもちゃといったモノのほとんどは海外で作られ、都市部でブランド化されたものだ。住んでいる家ですら、ハウスメーカーが作ったものが乱立する。

 家の中から、町の視点に広げてみる。移動するための道やトンネルはアスファルトやコンクリートで作られ、川はコンクリートブロックで護岸を覆っている。コンクリで埋め尽くされた、川と道を隔ているのは、既製品のガードレールや標識で、もはや田舎は、家の中から町のいたるところまで、外部からきた材料や既製品が備え付けられている。そこに生産地としての田舎はなく、消費地と化している。 都市化した田舎の暮らしも、やはり都市化している。子どもたちは川遊びの傍、携帯型ゲームで遊び、タブレットを片手に動画を見漁る。その姿は都会の子供とさほど変わらない。 しかし、未だに農村部では、ほのぼのとした空気感も流れている。われわれ時間と時計の時間と表して表現している。 

農村の戦後から現代までのまちづくり

 特にハード面を多く伝える。  拡大造林事業、JAの台頭、JTの台頭、燃料革命、公共投資、 他にも国際的な雑談で繰り広げられる 

 日本の風景を保全する取り組みの萌芽 

 これまでの美しい田舎の風景や立派な寺社仏閣をどうにか保全できないものか、経済性などと逆行した取り組みも日本では行われてきた。日本の風景を保全するにあたり、行政側で中心となったのは文化庁である。 あここでは戦後以降の文化庁の動向をざっとではあるが、おさらいしておく。非常に鍵となるのが、住民理解である。 1950年に文化財保護法が施工される。 

これまでの経済システム、1次産業などが崩壊していく中で、まちづくりの再重要視されている。しかし、現在のまちづくりにもいくつかの疑問が孕んでおり、

 1-2. まちづくりへの疑問 

 現代のまちづくり 

 まちづくりという言葉 は1970年代に生まれる。それから阪神淡路大震災や東北大震災など、大災害の度に存在感を増し、共助や協働、コミュニティなどの付属する言葉とともに、注目される言葉である。 

個人主義に対し、自分の周辺部として町を捉え、自分だけでない他者や社会像を捉えた活動に関心が持たれている。しかし、手放しでまちづくりという言葉の名の下行われているものが、良いものとも限らない。まちづくりの中でも、筆者が疑問視するものを取り上げる。

 経済性重視のまちづくり

 東京はウォーターフロントのマンションや、オフィス街の高層ビルなど建物が次々と建設中である。空き家問題が騒がれる中、未だに建設は続いている状況だ。また、既成市街地も経済的目線で大規模な1つの商業、経済エリアに開発することもある。六本木ヒルズがよく表した例だ。細かく分けられた住宅地の土地交渉に20年を費やし、オフィスビルや、住宅、商業機能が一帯となったエリア開発を続けてきた。 役場職員やまちづくりでよくある会話に「予算が、無いんだよなぁ」という言葉を目にする。予算がつくものに対しては積極的に実行してきた。最たる例が年中行事と自治会館だ。去年まで使われてきたものに対して、予算は付きやすい。町内の敬老会やお祭りにはお金がつきやすいのである。 また、自治会館の建設は全国どの地域でも必要なものだとして、かなりの数が作られてきた。お金がないという財政ながら、年間数える程度しか使わない自治会館への投資は惜しまず、数千万、数億円規模のものが全国で立ち並んでいる。 都市には経済という名の下にたくさんの負の遺産を積み上げてきた。 

 補助金、交付金 (霞ヶ関&県庁)型まちづくり 

行政や民間が事業を行うとき、「補助金」という言葉を耳にすることがある。 一般的に補助金とは事業に対し、社会的意義や、地域貢献性が高いものに対して、都道府県や、省庁がかかる予算の何割かを補助する制度のことである。 補助金がどの事業にもつくかと言われるとそうではない。省庁や、地方公共団体の職員が、地域住民の生活を観察し、必要だと思うものに対して、事業を推奨するようにサポート体制を作り、金額や条件のルールを作る。これらは通称「補助金メニュー」と呼ばれる。

簡単にまとめると、省庁に勤める官僚や、県庁職員が見た、その地域に必要な事業にお金がつく構図だ。 経済的に困難だが社会貢献度の高い事業を実現させるための制度とも言え、経済性重視のまちづくりの解決策の1つともいえる。 

役割だけを聞くと社会的に役に立ちそうなものであるが、実際の現場で起きている事態として、補助金ほど厄介なものはない。もはや、補助金に踊らされている町や人もたくさんある。 

とある地方公共団体の公務員や、民間企業は補助金や交付金のメニューから自分たちの地域でできる事業を探し、取り組む。そこには地域住民や、地元の地方公共団体が主導というよりも、県や霞ヶ関に従った方針でしかない。地域に不必要なものが町に点在する結果となる。

 また厄介なところに、補助金は年度事業が多く、年度内に発表されたものを1年以内に交付消化することも多い。最長でも3年間事業が多く、基本的に時間に猶予がない。時間のなさは準備不足を生み、陳腐な計画をうむ。また3年以上予算がつかないことから、補助金を元手にした事業が、たとえ良かったとしても3年で終わってしまうケースが多い。 

最たる例は、使わないホームページ、使われないSNS運用が行われ、年度末にはそれらが閉鎖される。少ない期間の運用で数百万円のお金が落ちる。内容も公平性を保つために当たり障りがなく、なんのためにしているのかもはやわからない。 最近ではリモートワークや、移住体験施設が地方で次々と用意されている。建設費用にお金がつくが、1日1000円の利用料など、経済的現実性がなく、スターバックスや地元の喫茶店、なんなら自宅の方が、効率的に働けるケースもある。 なにせ、補助金は地方に負の遺産をたくさん作ってきた。 

 広告代理店型まちづくり 

 行政でしばしば重要視されるのが「実績」という言葉だ。これは

「移住者を何人増やしました」
「イベントに何人来場しました」
「ホームページの閲覧数が目標値に到達しました」
「アンケートの回収率と人数が予定数を割りましたが傾向は掴めました」

などなど年度内にどれくらいの成果をあげたかというのがしばしば公務員の優劣として扱われる。どのような「実績」をあげたかの中身は出世や、役場内での立場を上げる上で、とても重要な指標となる。実績を上げる場合に右腕となってくれるのが、「広告代理店」の存在だ。

 彼らの特徴は 、計画を上手くプレゼンテーションし、イベントの企画を立てて実行し、実績の報告がうまいところだ。発表資料の作成がうまく、実行力もあり、報告資料の作成がうまい。実績を上げるのに申し分ない職能を持ち合わせている。

しかし、町にとって広告代理店のお仕事は財産となるのだろうか。一時のイベントで人は来るが、地元住民でやろうとすると、イベントを開催する方法や能力はなく、再度、代理店に頼まざるをえない。ダジャレや言葉遊びで名付けられたイベントや宣伝用キャッチコピーは地元の今後やこれまでを深く思慮するよりも、消費者に楽しんでもらうために作られている。 代理店に委託した宣伝やイベントが10年後20年後に町に成果として残っているのかと言われれば甚だ怪しい。

また代理店のほとんどが大都市にあり、地方の予算が大量に都市に流出している構図を作っている。 

 コンサルまちづくり  

 コンサルティングとは、専門的な知識を助言することである。まちづくりの分野は多岐にわたる。ハード面の整備から、コミュニティ運営や、最近ではITの知識もかじっていなくてはならない。幅広い領域であるが故に、環境問題、農業支援、観光PRなど各分野をコンサルティングする会社が存在する。地方公務員は専門性を補助するためにコンサルティング会社と契約し、二人三脚で事業を進める。 素人考えではなく、まちづくりの質を高めるためには必要不可欠な存在である。

コンサル会社とのまちづくりにも課題が浮き彫りとなっている。 最大の要因はコンサルに任せっきりのまちづくりだ。地方公務員は何をしていいかわからず、コンサルティング会社に依頼する。そして依頼された側も何をしていいかわからず、事業を始める。課題がぼやけたままのコンサル会社とのやりとりは、町に来てもらい、町中を案内し、接待をして帰ってもらう、というほぼ物見遊山に近いやり取りとなってしまう。 

1年間の成果報告書の内容の陳腐さは痛いものであり、実績報告は住民に見せられるものではない。まちの見物の旅行記が出来上がり、それとなく専門用語が散りばめられ、実現するかわからない提案が最後についている。

 また地域住民は、年に数回、公民館に召集がかかり、コンサル会社のありがたい話を拝聴するか、ワークショップの名の下に意見出しを促される。集会はコンサル会社の実績となり、会の内容が成果を優劣ではなく、写真と開催日時を報告書に掲載する実績となる。 このコンサル型まちづくりの最大の原因は地元住民の参加意識の低いままに、いきなりコンサルが訪れるため、なんの準備もできず、今後のまちづくりの積み上げにならないところである。 

コンサルを連れてくる予算は補助金や地方交付金で賄われることもしばしばある。 

 まちづくりとはなんなのか? 

これは悪例をいくつかあげているが、実際の世の中で蔓延している。健全にまちづくりをしている地域もあるが、圧倒的に、前述のようなまちづくりが多い。それはもはやまちづくりというよりも補助金や交付金に踊らされて町を「作られて」いる、受け身なまちづくりだ。

 民間人が個人で頑張って店作りやボランティア活動を続けるところもある。それらの取り組みは地域の魅力の1つとなり地域内外から人々が集まる観光資源となる。

ケーキ屋やシェアハウスが開かれ、地元産の原料を使ったり、耕作放棄地の開墾を進める地元貢献型の店舗も出てきている。

しかし、個人は個人の生計を立てることが優先であり、まちづくりが主とはならない。原則は生計を立てるための利益との戦いであり、利益が立たなくなると、やめてしまう可能性もある。 現代のまちづくりは純粋に地域のためというよりもどこかで経済性や複雑さを孕んでいる。

では、そもそもの町や村はどのようにして成立していたのだろうか?そのヒントは「おもてなし」ではないかと筆者は考える。

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