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三つ子の魂百まで?

娘、息子に新しい自転車が買い与えられました。
ありがたいことに、私の両親から
「孫たちに何か贈り物を」
との好意で、買っていただけたものです。

思えば、小さいとき(3~4歳)にストライダーを買い与えたときに
楽しそうに乗り回していたと記憶に新しいように思います。
そのお陰もあってのことか、娘はすぐに自転車に乗れるようになりました。

そして、息子は5歳になって初めて自転車を跨いだが乗れるようになるのはすぐでした。
恐るべし!
ストライダー!

それはいいとして、新しい自転車に乗れるようになった子どもたちを見ていて考えたことがあります。

娘は2年間シンガポールで生活していたこともあり、自転車に乗れるようにはなっていたものの、実際に乗るのは2年ぶりのことでした。
しかし、やはりちゃんと覚えているものなのですね。
なんなく、自転車を乗りこなしている。

「三つ子の魂百まで」
3歳の子供の性質は、100歳になっても変わらないということで、持って生まれた性格は、生涯変わらないことのたとえ

とはよく言ったもので、忘れないものなのだなと思ってしまいました。


しかし、これって『すべてにおいて成立する発想』なのだとすれば、めちゃくちゃ怖いのではっ!!?
なんてことを考えてしまいます。

3歳のときの時分に、たまたま両親ともに日々の生活に困窮し、疲労し、精神的にも参ったような様子をしていると
まさに鏡である子どもたちは、その両親の様子や言葉遣いをしっかりと焼き付け、その後一生をそのような「生活は苦しいものだ、汚い言葉が出てきて当然だ」といったように受け取るのであろうか?・・・

いやいや、冷静に考えて、そんなことはないか・・・

色々と調べてみると、三つ子の三つは三歳という意味ではなく、「幼児期」と捉えられるのではないか という説。
特に3歳のときは脳の8割が出来上がる時期、言葉に個性が帯びる時期、保護者がいないと何かと生活はできない時期など
養育にとっても大切な時期となっている部分があるため、特に3歳というのが挙がっているという説。

元の由来となっているのは源氏物語の一文からであると言われているのですが・・・


総じて、良いように捉えるのであれば大事な内容であるなと確信しています。
なぜなら、幼児期に積極的に子どもたちに関わろうとする精神的指標や支えとなる言葉だと感じるからです。(自分への戒めのような訓告といったところなのでしょうか)

しかし、負担となるようであればマイナスの効果しか生まないように思います。ここは、意味を変えて解釈しておくことも必要なのかもしれません。

例えば、「三つ子の魂百まで(とはいわれるものの、変わることもざらにあるからな)」くらいのニュアンスで・・・
あるいは、「満つ子の魂百まで」としておくと
気持ちも、空腹も満たされるように対応された子の記憶には、百になるまで覚えているほどの鮮明さが宿る といった解釈などはいかがでしょうか。

あーだめだ、文学的なセンスがない。
より良い解釈となるように考え続けます・・・


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