報道機関に求められる「公平・公正」は中立ではない ~Z世代と探るジャーナリズム(5)
安倍晋三政権の官邸で首相補佐官を務める礒崎陽輔さんという参院議員がおかしなことを言っているなと私が初めて気づいたのは10年近く前、2013年11月8日のことだ。
実際には放送法に「中立義務」の規定など存在しない。にもかかわらず、その日の朝、礒崎さんは突如として「放送の中立性を侵せば、放送法違反です」と強弁するツイートを始めたのだ。
安倍政権から特定秘密保護法案が国会に提出され、衆院本会議で審議が始まったのがその前日だった。それに関するテレビ各局の報道ぶりに礒崎さんは「困ったものです」ととても不満だった。その揚げ句、テレビ局の監督権限を持つ政府の高官の地位にありながら特定の番組を「放送法違反」と決めつける。どこかの全体主義国家ならいざ知らず、日本でこれは尋常でない。
思わず私は次のようにツイートした。
これら3つの私のツイート、当時は「はず」という語尾にしているが、その通り断定して間違いない内容だ。
礒崎さんは国会議員になる前、総務省の官僚だったという。放送法はその総務省所管の法律であり、その条文に「中立」という言葉はない。それに加え、個別の放送番組に政府や与党政治家があれこれモノを言うのは、表現の自由、報道の自由との関係で、非常にデリケートな問題を含んでいることはよく知られている。にもかかわらず、このころの礒崎さんは素朴かつ浅はかな素人同然の思い込みにこだわっているように見えた。
2日後の11月10日午後1時過ぎにも、礒崎さんは次のようにツイートした。
このツイートも誤りで、番組の司会者が政治的意見を述べるのは何ら違法ではない。一つの番組ではなく、その放送局の番組全体を見て、放送法への適合性を判断するというのが、政府による長年の法解釈だから、キャスターの一人が何を言おうが、法違反を断定できるはずがない。
さすがに指摘を受けたようで、その日の夕方、礒崎さんは「『政治的公平性』と言った方が良かったかもしれませんね」とトーンダウンし、別のツイッター利用者から「そもそも『公平』と『中立』の意味の違いを理解していなかった点ですべてを物語っていますな」と突っ込まれると、「御指導ありがとうございます」と素直に応じた。
2023年春の国会で問題となった、放送法の解釈をめぐる舞台裏での礒崎さんと総務省の大立ち回りは、これら一連のツイートからほぼ1年後の2014年11月に始まっている。テレビ番組は中立でなければ放送法に違反するとの素朴な思い込みがその伏線になっているように見える。
中立ではなく独立 多数派迎合ではなく公正
都心の大学の新聞学科の教員になった私が2022年の晩秋「中立」について学生たちと議論しようと思ったのは、そんな礒崎さんのツイートが念頭にあったからだ。礒崎さんと同様の思い込みを少なくない学生たちの言葉に見いだして、ここは議論のしどころだと考えた。11月25日の「新聞論」の授業で私はあえて「必ずしも中立が正しいわけではない」と強調した。
(この原稿は、2023年4月7日発売の月刊誌『世界』2023年5月号のために執筆し、「Z世代と探るジャーナリズム 連載第5回 報道機関に求められる「公平・公正」は中立ではない」とのタイトルで同誌に掲載された。)
たとえば、男女は平等であるべきだという意見を相対化し、男子のほうが優遇されるべきだという意見とそれに反対する意見との間で中立でいようとするのだとすれば、それは誤りだ。基本的・普遍的とみなされるべきコアな価値から離反して中立でいようとするのは、明らかに間違った態度だ。
たとえば、ナチス支配下のドイツで、あるいは、対米開戦前後の1941年暮れの日本で、中立の報道というのはどのようなものになるのだろうか。ユダヤ人の迫害に賛成する意見と、ヒトラー総統を批判する意見を等量で扱った場合、そんな中立が公正と言えるだろうか。現在の私たちの当たり前の価値観をあてはめたとき、ユダヤ人迫害をわずかでも正当化するような言説をまともに取り上げるのは、とうてい公正とは言えないだろう。
たとえば、公的な権限を持つ人がその権限による恩恵を受けるかもしれない事業者の側から利益提供を受けた疑惑について、調査報道記者は最終的に事実を独自に認定してそれを報道する。事実を否定する関係者のコメントを記事に盛り込むとしても、追及する側の記者はおのずから局外中立にはおられない。たとえば、新聞の1面トップに「『金丸氏側に5億円』と供述 東京佐川急便の渡辺元社長」という大見出しを掲げるとき、記事本文に「金丸氏側は『あり得ないことだ』と、全面的に否定している」と盛り込んだとしても、その新聞社はもはや、金丸氏と渡辺元社長の間で中立であるわけではなく、もしくは、検察側と金丸氏の間で中立であるわけではない。金丸氏の側に疑惑があるとの立場にその新聞社が依拠しているのは明白だ。そうした立場を選ぶことを否定するのなら調査報道、事件報道は成り立たない。
たとえば、ウクライナとロシアの間で中立にいるべきだという主張をよく耳にする。ウクライナの側からこの主張あるいはこの「中立」を見たとき、それはロシアの侵攻に積極加担しないまでも、それを黙認・許容する立場を採ることにほかならない。結局のところ、侵略を容認し、「血にまみれ」ている、ように見えてしまう。どのような事情があれ、主権国家であるウクライナの領土に武力で侵入したのはロシアであり、それは侵略そのものだ。これを相対化するべきではない。惨殺された遺体が転がっている現場で、生き残った人々から「ロシア軍がやった」という話を聞き込むことができたのならば、ロシアの蛮行とそれを非難する声を記事として送り出すのがあるべき報道機関であって、それを否定するロシアのコメントを扱うとしても、それを本記と同等の大きさ重さで扱うのが公正な報道ということにならならない。調査報道では記者が事実を認定し、たいてい善悪も判定する。
このように、中立でないほうが正しいという場面は少なくない。中立でいることは、かなりの頻度で、間違った結果につながることがあり、必ずしも正しい立場であるとは限らない。さらに言えば、報道機関が中立であろうとすることは、ときに付和雷同をあおり、多数派の極論を増幅し、「民主主義の失敗」を招くことにつながりかねない。報道機関は、中立にこだわるのではなく、ときに中立を離れ、正しい立場を何者からも独立して選ぶべきだ。それが公正・公平の実質である。
中立はジャーナリズムの基本原則ではない
日本の主要な新聞社や放送局の大部分は、その報道のあり方として、政治的に公平であること、あるいは、公正であること、不偏不党であることを自らの倫理規範として自覚し、外部に表明している。新聞倫理綱領は、報道は公正でなければならない、と謳い、放送法は放送番組の編集にあたって「政治的に公平であること」を求めている(番組編集準則)。
海外でも、たとえば英国の公共放送BBCは、不偏公平(impartial)と独立(independent)を標榜し、公正(fair)で正確(accurate)な報道を目指すと表明している。
ただし、ここで注意しておかなければならないのは、前述したように、公正・公平であることと、中立であることは別の概念であり、中立であることが常に公正・公平であることと等しいとは限らない、ということだ。
米国でジャーナリズムの原理・原則を説く教科書として広く参照されているビル・コヴァッチ、トム・ローゼンスティール著『The Elements of Journalism(ジャーナリズムの原則)』は、「中立はジャーナリズムの基本的な原則ではない」とはっきり言い、「ジャーナリストが保たなければならないのは、中立(neutrality)よりも独立(independence)である」と力説している。形だけ中立を装う態度を批判し、「客観的であること(objectivity)は中立(neutrality)を意味するわけではない」と強調している。
英BBCの編集基準は、「すべての問題について完全な中立(neutrality)を求めるものではなく、また、基本的な民主主義の原則(fundamental democratic principles)から離れることを求めるものでもない」と述べている。これは先に私が述べた「基本的・普遍的とみなされるべきコアな価値」と同様の、西洋近代社会が理想とする原理・原則を指している。
当たり前のことのように聞こえるかもしれないが、何をもってこの「基本的な民主主義の原則」ないし「コアな価値」とみなすかには、主観的な価値判断が当然入るし、一義に定まるものではない。
たとえばユダヤ人迫害だとか、犯罪行為だとか、侵略だとかを報道する際には、それらを非難する意見と容認する意見との間で中立でいることを選ぶべきではなく、公正な立場を選ぶべきだ、と言うのは簡単だ。善悪が明白であり、何が公正かも明白だからだ。同様に男女差別についても、それを否定する立場で報じていくのが公正な報道だと容易に言える。しかし、LGBTの権利だとか、取材・報道の自由だとか、法による支配だとか、そういう価値の具体的中身となると、意見は分かれるかもしれない。それらを「基本的な民主主義の原則」に該当するものとみなし、それに沿って、LGBT差別禁止法構想や特定秘密保護法案、安全保障法制を報道していくことが公正・公平な報道に該当すると言えるかというと、礒崎さんのような人は、異論があるのかもしれない。集団的自衛権の行使に関する長年の憲法解釈を司法判断なしで内閣の一存で変更しようとするのは、「基本的な民主主義の原則」を損なう行為とみなしうるけれども、礒崎さんはもちろんそれに同意しないだろう。
あとで詳しく述べるが、「公正」「公平」は、報道し、表現する側の、自律のための誓いであり、よすがである、と考えられるべきだし、実際そう考えられてきた。国家権力によって履行を強制される法的義務ではない。
「中立ではないから偏向」と批判されるメディア
こうした説明をすると、学生から多くの反応があった。
ある学生はこのように書いてきた。
たしかに、新聞や放送の「偏向」を批判する言説がインターネット上にあふれている。2013年の礒崎さんの素朴なツイートはそうした言説に共鳴しているように私には思えた。「中立」の陥穽について学生と議論しなければならないと思った背景には、そうした状況がたしかにあった。そのことをこの学生は指摘してくれているのだ。
報道機関にも記者にも善悪の価値観は当然あるし、それに従って報道している。縁故で行政判断を歪めようとしたり、公文書をなかったものにしようとしたり、改ざんしたり、監督下の業者から利益の提供を受けたりするのは、良くない行いだ。それらの報道にあたっては、良いか悪いかの間の中立ではなく、悪いことは悪い、という立場を選ぶのは当然だろう。それこそが公平で公正な態度だ。そうした態度を偏向だと批判する言説があふれているのは、学生の指摘する通りだが、そのような言説は前提を間違っている。
中立でいることを自己保身に結びつけて厳しく批判するこの意見には翌週、複数の学生から感想が寄せられた。その一人は「自分もそのような(保身の)傾向があるのではないか、と身が引き締まる思い」を覚えたという。
別の学生は「『マスメディアは中立であるべき』という考えが当たり前と疑いもしませんでしたがジェンダーの問題など中立ではなくしっかりと意見を持つべき問題も多々あることに気づかされハッとしました」と振り返った。
ある学生の意見に別の学生が触発される、そんな場を設けられるのは、教師冥利に尽きる。
「けしからん番組を取り締まる姿勢」の為政者
前述したように、そもそも何が公平・公正か、そうでないか、を客観的に判定するのは、中立であるかどうかを判定するのとは異なり、非常に難しく、時に不可能だということにも注意しなければならない。
中立であるかどうかを判定するのは、たとえば、文字数や行数、写真の大きさ、放送時間の分秒で測ることができ、比較的容易であり、基準として使いやすい。番組の司会者が、俎上にある複数の意見のうち片方の意見に与すれば、たしかに礒崎さんの言うように、それは中立ではない、と判定できるだろう。しかし、繰り返すけれども放送局も含め報道機関はそのような中立を求められているのではない。新聞倫理綱領や放送法の番組編集準則で求められているのは、中立ではなく、公正・公平であることだ。そして、公正・公平であるかどうかは、マルかバツかで判定するのに馴染まず、また、定量化できず、基準の設定が困難だ。
新聞倫理綱領にせよ、放送法の番組編集準則にせよ、その内容は抽象的・理念的で、かつ、漠然としており、規範のいわば大綱を示すにとどまっている。「公正」「公平」の具体的な意義は明らかにされていない。これらの規定内容は、報道機関として倫理上目指すべき理想を示したいわば「プログラム規定」と考えられるべきもので、いわば遠くに掲げられた理想であり、たゆまない努力の先の目標である。完全な公正・公平を既に実現したと胸を張って約束できるものではないし、そのための努力は誓っても、その実現の義務を負うものではない。道徳的な指針「道しるべ」を示したのが新聞倫理綱領であり、放送法の番組編集準則であると考えられるべきだ。
過去の裁判例でも、日本共産党が自民党の意見広告への反論文の掲載をサンケイ新聞に求めた訴訟で、東京地裁判決とこれを引用した東京高裁判決はサンケイ側の主張を踏まえ、新聞倫理綱領の言う「公正」について、「『公正』の内容は当該新聞が主観的に公正と判断したことで足りる」としている。
「それぞれ(の新聞)が『公正』の枠内でその独自性を競うことになろうが、その際の『公正』とは畢竟、主観的に『公正』と信じる立場を取るというに過ぎまい。(中略)新聞の在るべき姿としての公正はこれを理想として観念するは格別、それを超えて法的義務として理解することは困難と言うべきである」
これは、「公正」という言葉の意味内容が多義的であり、個別の記事や広告への倫理規範としての直接適用に馴染まないことを確認した判示である。「かかる倫理上の指針を楯にとつて特定の記事や広告がこれに副わないことから直ちに掲載者の責任を問うのは失当である」
新聞倫理綱領や放送法の番組編集準則は、新聞人や放送人が目指すべき理想を示したものであって、そうした理想を個別の番組や記事に直接適用してその当否について一義的な評価・判断を下したり、それによって何らかの制裁や威嚇の実質的効果をもたらしたりすることは、もとより想定しえない。個別の現実に「理想」をあてはめて、一刀両断にするのは、現場に過酷な負担を強いるばかりで、事態の改善につながらないどころか、現場を萎縮させることになる。
もし仮に、個々の記事や番組について、だれかが「公平・公正ではない」と判定し、したがって、新聞倫理綱領や放送法に違反する、と結論づけ、それが一定の権威を帯びるような状況が生じるのだとすれば、記事を執筆する側、番組を制作する側は間違いなく萎縮する。不明確な基準で裁かれるのと同じで、越えてはならない一線が見えなくなり、ありきたりな「事なかれ」に流れ、社会に必要な情報の自由な流通が大きく阻害される。そのような事態に陥らないようにするため、新聞倫理綱領や放送法の番組編集準則の規定を個々の記事や番組に直接に適用して何らかの権限が発動されるのは控えるべきだ。「公正」「公平」の規範を、抜き身の包丁で切り分けるように具体的な事例にあてはめて白黒の結論を導く、というように運用するのは、厳に控えられるべきだ。
礒崎さんが2014年から翌15年にかけて切り込んできたのはそこだった。総務省に残る文書によれば、礒崎さんは同省の担当局長に次のように働きかけた、とされる。
これらは、政権当局者が自分たちの気に入らない言論を抑え込みたいという不純な動機で法の解釈を無理に曲げようとした試みであり、それそのものが法の趣旨に反する。その結果、一つの番組のみの、極端に例外的とまでは思えないような状況について、番組編集準則違反とみなされる場合があり得る、と読めるような新たな法解釈が2016年2月に政府統一見解とされた。残念ながらこれによって番組の制作現場はかなり萎縮したはずだ。これは日本の民主主義にとって良いことではない。
事実に忠実に「世の中全体のフェアネス」に目配り
2022年11月末以降、中立、不偏、公正、公平、客観、事実、真実、それらジャーナリズムのキーワードをめぐって、翌週も翌々週も、前の週の授業で紹介した学生たちの意見に対する新たな意見が次々と寄せられ、それは5週にわたって続いた。抽象的な議論であるように見えて実は、新聞学科の学生にとっては、ゆらゆらする自分たちの立ち位置を定めるためのガイドラインとなりうる切実な議論なのかもしれない。
男子学生の一人からは次のような文章が寄せられた。
この学生が触れているフェアネス(fairness)は、公正、公平の語源となっている英単語であり、私たちが大切にしたい価値だ。この学生は次のように文章を締めくくった。
中立であろうとするのではなく、とはいえ党派的に偏るのでもなく独立を守り、客観的な事実に忠実に、真実を公平・公正に報道していく、という態度が記者や報道機関には求められる。(次回につづく)