別の場所で -2021年9月3日

今日は目覚ましと同時に目覚めることができた。多少の眠気はあれど、夏休みももうすぐ終わるのでそろそろ早起きの習慣に戻る必要がある。とはいえ、起きたのは朝8時で、特に一般的には早起きと言えない時間なのだけど。

予約していた美容院に行く。ここ1年くらいは、毎回同じ人に切って貰っている。カードに来店日のスタンプが5つ溜まっているのを確認し、会計を終える時にそれは6つになった。毎回同じ絵柄のスタンプは無機質に並び、初めの方のインクはすっかり乾き切って色が飛んでいる。1番最初の美容師との会話はもう思い出せない。カードを財布に仕舞った。

「鳩の撃退法」はエスカレーターを降りて手前の大スクリーンで上映していた。客はかなりまばらで、小学生くらいかそれより下に見える子供は1人もいなかった。H15、全客席のほぼど真ん中と言える席に腰を降ろす。いくつかの予告編から目ぼしい映画をチェックし、それ以外は昼食後に込み上げてくる眠気を必死に抑えながら座っていた。

映画の内容はこうだった。小説家の男が、ある実際に起こった一家失踪事件と偽札事件、2つの事件の関連性を確信するまでと、その後に彼が「とるべきとした」行動。彼がなぜこの行動を「とるべきとした」かは、作中で出てくる本の帯に謳われた「別の場所でふたりが出会っていれば、幸せになれたはずだった」というキャッチコピーに対する彼の持論に起因する。
作中、小説家である彼は、「でもそれだったら」「小説家は別の場所でふたりを出会わせるべきだろうな」と言うことで、後半に起こるあるギミックに誘う。
ハッピーエンドもバッドエンドも、作者が存在すればいつでも書き換えられる。それが現実なら?というテーマを描いた本作だが、「鳩の撃退法」という原作小説を書いた佐藤正午さんのプロフィールが直木賞作家である主人公の設定とリンクしていることから、ややメタ的な部分もある。むしろ主人公の津田慎一が最終的に書いた小説が「鳩の撃退法」で佐藤正午さんの小説と全く同じタイトルであることから、ほとんど作者を投影した人物であると考えたほうが良いかもしれない。フィクションとノンフィクション、ハッピーエンドとバッドエンド、それぞれが混ざり合い、映画を観た我々の現実まで掻き混ぜるような作品だった。
原作者の佐藤正午さんは、ニュースで見た凄惨な事件などに対して、「俺ならこう書き換えてやる」という普通なら戯言で終わることをある意味現実にしている。それを可能にするために練り上げられた設定、構造に痺れ上がった。めちゃくちゃかっこいい小説家だと一気に惚れ込み、原作本を本屋で息荒く購入した。良いフィクションとの出会いはノンフィクションの現実を揺らす、あるいは傾かせるほどの力を持っている。

さて、私の話をしたい。私は映画を観た後帰宅し、自分が今付き合っている恋人と電話で別れ話をした。切り出したのは私だ。私は映画の中で本の帯に謳われた「別の場所でふたりが出会っていれば、幸せになれたはずだった」というキャッチコピーを頭の中で反芻していた。これだけならセンチメンタルに浸ってノスタルジーに酔いしれて永遠に泣いていられる私になれるかもしれない。しかし、私の現実への対抗策は佐藤正午氏が提案してくれた。
「でもそれだったら」「小説家は別の場所でふたりを出会わせるべきだろうな」
書こうと思った。彼との幸せな出会いを。幸せな結末を。
2人は同じ大学に進学し、恋に落ち、同じニュースを見て同じように顔をしかめたり微笑んだりして、ただ互いの存在を確かめ合い、それが幸せな日常として自然に続いていく。2人は結ばれる。ずっと。永遠に。

たった5行だけど、どんな小説より、私はこの文章に胸が締め付けられ、叶わぬ現実を塗り替えられぬ悔しさに打ちひしがれる。でも私はある意味この文章の作者なのだから、私が望んだ風になるべきなのだ。現実もやはりそうだろう。フィクションと違って、他人の心情までは私の望んだふうには書けないし、設定も選べないし、圧倒的に作者が弱い。けど、自分が望むような続きを書きたい。それは誰もが心のうちで思うことで、私もそう思っている。





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