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生きるのに慣れてきた- 2021年9月28日

noteを始めた頃、いつも頭の中にあった言葉がある。「やばたにえん」である。
とにかく精神状態が良くなく、また地方の大学に進学したのもあって、一人暮らしでただ毎日カーテンから差し込む朝の光に怯えていた。世界で1番優しい光でさえ自分にはナイフだった。辛かったのだ。

弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。太宰治 /「人間失格」より

正に私も、真綿のような優しい世界で居場所を失くしかけた。本当は、自分を取り巻く愛に見て見ぬふりをした。孤独だったのだ。
自分にはそれぐらい悲しいのが相応しいと信じ込んでいた。部屋中に溢れる罪悪感のようなものが膨張して、私を壁際に追い詰めて執拗になじった。酸欠になりそうな私の視界に広がった白い真綿のような「それ」はこう言った。

いいか、お前はここから出られない。お前は宇宙の塵よりも価値がなく、お前は幸せになれない。今までも、きっとそうだったように。

ふざけるな、そんなはずがない。そう言って払い除けたかったが、気力も体力も出なかった。私は抵抗できない代わりに耳を塞ぐことを覚え、世界の何もかもをシャットダウンしながら生きる、という苦しい選択を選ばざるを無かったのだ。

しかし案外慣れてっちゃうもんで人生、喉元過ぎれば熱さを忘れるというより、ただ熱さに慣れてゆくのだ。「熱い」と感じる感覚が麻痺して、通常になる。水風呂に足先を浸した時に感じた耐えきれないくらいの冷たさは、長く浸かっていくうちにただの水温になるのだ。

こうやって自分は、いま自分が摂氏何度の水に浸かっているかも分からず、「死にたいって毎日言ってる人、貴女くらいしか見たことないよ。」という友人の些細な一言で自分の水温の冷たさを知るのだった。

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