「白日」の歌詞を勘違いしていた日々の話 -2020年6月2日
突然だけど、ある勘違いに気づいた。
King gnuというバンドの「白日」という曲を知っていますか。
YouTubeのMV再生数は億を超え、未だに有料アプリの楽曲ランキングに上位に入り続ける、ロングランヒット曲だ。私は、そのサビの歌詞をずっと勘違いしていた。
真っ新に生まれ変わって 人生一から始めようか
このフレーズが凄く印象的だったのだが、私は致命的な思い違いをしていた。
正しくは、
真っ新に生まれ変わって 人生一から始めようが
だった。「始めようか」という宣言に似た意味とは違い、「始めようが」となると、「始めたところで」という続きがあることになる。実際、私が意識していなかった、サビの歌詞には続きがあった。
へばりついて離れない 地続きの今を歩いてるんだ
この曲のメッセージとも言えるサビは、まっさらに生まれ変わり、すべてを捨てて歩んでいこう、という開き直りではなかった。
そう決めたところで、「今」を捨てることはできない。泥臭く、汚れてどうしようもなく、今にも置き去りにしたいような日々の延長に、「今」があるのだ。そういう実感が込められている。
すべてを捨てるということは、今まで這いずってきた先の「今」でさえも捨ててしまうことだ。だから、完璧にまっさらに生まれ変わるなんて、出来ないのだ。この世界を、「今」を生き続けようと思うならば。
朝目覚めたら どっかの誰かに なってやしないかな なれやしないよな
聞き逃していただけで、こんな歌詞もあった。
つまり、「白日」は私が思っていた「すべてを捨てて、今新しく生まれ変わって歩き出そう」
という意味ではなく、「すべてを捨てて生まれ変わるなんて出来なくて、それでも今を生きてゆくしかないんだ」という曲だったのだ。
最後に、わたしの好きなバンド、ASIAN KANG-FU GENERATION の「ソラニン」と
「白日」に共通する世界観を紹介したい。
ソラニンの歌詞に、飽和した日常への薄っすらとした諦めと、未来へのぼんやりとした不安が
綴られた箇所がある。
たとえば ゆるい 幸せがだらっと 続いたとする きっと 悪い種が芽を出して もう さよならなんだ
白日では、
忙しない日常の中で 歳だけを重ねた その向こう側に待ち受けるのは 天国か地獄か
と、こちらもまた、日常の空虚感、不全感と共に、未来へのはっきりとしない不安な気持ちが現れている。
しかし、ソラニンと白日が完全に「傍観」という訳ではない。その歌詞には、諦めの気持ちが綴られているが、それでもどこか希望を感じずには居られない。
ソラニンは映画の劇中歌で使われた楽曲だが、
ある劇中の登場人物はこの曲を聴いて
「これは別れの曲だ」
という感想を口にしている。
別れ。それは、今さらどうしようもない過去との別れか。飽和して擦り切れそうな「今」との別れか。それとも、まだ見ぬ未来への、ぼんやりとした不安に告げる別れか。
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