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聞き書き 昭和初期の記憶-そば嫌いの理由-

「キヨばあちゃんはそばが嫌い。アレルギーとかではないんだけど」

母に言われ少し首を傾げた。

母方の祖母・キヨは昭和10年代の生まれ、まだまだ体も元気で料理上手なおばあちゃんである。食べ物の好き嫌いがあるようには思えなかった。

そこで正月の挨拶に顔を見に行った際、そばについて話を向けてみると

「そばはこどもの頃”ゲボが出る”くらい食べたので聞くだけで嫌になる」

とのこと。念のため、”ゲボが出る”とは嘔吐するの意である。


キヨばあちゃんには兄・姉に加え、下には弟妹が6人がおり、計9人きょうだいである。四国の山奥の村に生まれた。キヨばあちゃんの父は貞信(通称サダおじい)、母はハル(通称ハルおばあ)。ハルおばあは豪放磊落、料理はぜんぶ鍋に材料を突っ込んで煮物にしてしまうような人。一方サダおじいは手先が器用で、かごやむしろを編んだりするのが得意だった。

サダおじいの印象的なエピソードを1つ。当時、小学生になってもランドセルを持っている子は少数、大半の子は風呂敷を使うことになるが、やはりうまく包むことができず、道端で教科書をばらまいてしまうことも多かったという。そこでサダおじいは自分の軍服のお古を活用し、キヨばあちゃんにショルダーバックのようなものをこしらえてくれた。「今で言うリサイクルやね」というキヨばあちゃん。嬉しかったが、でもやっぱりランドセルがうらやましい気持ちは消えない。

そんなキヨばあちゃんは学芸会の劇で、「ランドセルを背負って歌う」という役をすることになった。そこでクラスで唯一ランドセルを持っていた子に「劇の本番の数分間だけ」ランドセルを借りることに。人生でランドセルを背負ったのはその2,3分間だけ。でも、今でも忘れられないくらい嬉しかったという。ちなみにそのランドセルも、当然新品ではなく、きょうだいのおさがりのぺちゃんこなランドセルだけれど。


さて、話をそばに戻そう。

キヨばあちゃんは10歳ちょっとで住み込みの子守奉公に出ることになった。住み込み先は満州から引き揚げてきた家族で、田んぼがないため昼間は家族総出で山を切り拓く。その間3人の子どもたちの面倒を見るのがキヨばあちゃんの役目だった。一番下の子どもは1歳である。

子どもたちのお母さんは乳の出が悪かった。当然ながら粉ミルクなんかはないので、米を臼で挽いてお湯で溶いて飲ませる。そうやって貴重なお米は赤ちゃんへ与えるため、その他の家族はひたすらそばを食べていたという。

朝はそばがき、昼はそば粉のお団子、夜は野菜の切れ端を入れたそば…。もうそばはイヤだ、と思うがお腹はペコペコ、食べるしかない。たまにちょっぴり入っているじゃがいもがものすごくおいしかった。

そんな経験を思い出すため、今でも「そば」という言葉を聞くだけで勘弁、といった存在なのだという。

まさに「ゲボが出る」といった顔を見せたあと、キヨばあちゃんは続けた。

「でもね、もっとひどい子たち、ヒロシマの原爆孤児の子たちなんかは新聞紙を水でふやかして食べていたって言うよ。それができない子は飢え死にしたんだ。ばあちゃんは恵まれてたね」

言葉もない。75年ほど前、実際にそうやって過ごしていた子どもたちが確かにいたのだ。


戦時中の話や戦後の混乱については、わたしたちにとっては「歴史の授業で習うコト」になりつつある。だけど、”当時の子どもたち”にとっては、今もはっきり思い出せる忘れられない日々なのだろう。

絶対に語り継いでいく…なんて偉そうなことは言えない。けれど、わたしが忘れてしまったら、こういったことは少しずつ零れ落ちていき、なかったことになってしまうのではと思った。それはなんだか、つらい。

2022年も、キヨばあちゃんに会うことは、なかなかままならない日々が続きそうだ。でも次に会ったら、また思い出話を聞かせてほしい。少しでもばあちゃんの記憶を繋げていきたいから。

そば以外のものをしっかり食べて、元気で過ごしてくれよ。


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