なにもできない人間が、未来のためにできること
「わたし」というこの微々たる存在が、未来に及ぼす影響があるとするならば、それはなんだろうとおもった。
今の今まで、他人のためになにかしようと行動できたことが突き詰めて考えると、ないかもしれない。こう言うと勘違いされるだろう、でもいい、そんなのは百も承知、いつも「わたし」は自分のために行為している。
「他人のため」という利他も結局は、「自分のため」という利己に変わるとき、それはお節介か偽善に成り果て腐っていく。
本当に目の前の人になにかしたいと思ったとき、人は、自分にはなにも出来ないことを痛感するはずだ。なにも出来ないからこそ、なにが出来るかをはじめて考えられる土俵に立てるのではないか。
なにがその人の困りごとなのか、なにがあればいいのか、そもそもその人は自分になにかをしてほしいのか。
押しつけでもなく、利他的であり、その人の助けになること。よく聞いて、よく見て、考えなくては分からない。そのうえで自分のやる行為は基本的に「自分がしたいこと」であるはずだ。
おまけとして、相手の役に少しでも立てたなら、それこそが利他的だ。しかし結果の真価というものは、時間が経たないと分かりはしない。
ただ、そこにあるのは、「尊重」だと思う。未来の一員を尊重すること、これが非力ながらも私のできる未来のためにできること、ではないか。
しかし振り返ると最初から、こういうわけにはいかなかった。
高校生にあがったとき、様々な智慧を身に付けていく過程で、私は社会のためになにかしたいと思って生きていた。実際にボランティアにも参加した。社会運動にも参加した。よく働いて、よく自分の手と足を動かし、物事の本質を見極めたいと思った。
それこそが社会のために自分が出来ることだと、当時は信じて疑わなかったのだ。
しかしどうだろう、多くの人と接する中で、自分という一個人ができることなど本当の意味であったのだろうか、と立ち止まった。その時、その瞬間は、解決しただろうと思える事柄もなかったわけではない。
でもそのすぐに解決できるような事柄は、私の存在がなくたって本人は本人の力で解決できるものだっただろう。本当に人の手を借りないとできないようなことは、そもそも解決などできないことがほとんどであるはずなのだ。
そんな時に他者である私たちができるのは、その人の苦しみ、やるせなさ、悲しみ、悔しさを、解決することはできなくても、あの手この手で肩代わりすることをその人と共に考え続けることだろう。
他者が持っている「痛み」、それを「痛い」と言える社会の一員で、あり続けることだろう。
ただただ他者を「尊重」することでしか、私たちは大きな意味を為さないのではないか。そういう意味で、多くの人が「尊重」という代物を学べる機会が増えたらいいとおもう。
私も様々に変わる「尊重」のカタチを学んでいきたい。その代物が多くの手に届くとき、未来が大きく良い方へ変わるのではないか。ひとり、ふたり、さんにん、人数が増えたら、社会になり、世の中の未来が作ってゆけるのだから。
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