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6. 「死への距離感」を決める

納棺師の木村光希(きむら こうき)です。
だれかの大切な人である故人さまと、大切な家族を亡くしたばかりであるご遺族の、最後の「おくられる場」「おくる場」をつくることをなりわいとしています。 

「今日が人生最後の日」では、すこししんどい

どうすれば、日々をより豊かにできるのか。
まず、自分なりに「死への距離感」を決めるのがひとつの方法です。

「自分も、この大切なひともいつか死を迎えるんだな」とただぼんやり思うだけではなく、「いつ死を迎えるか」を具体的に想定してみるのです。
そして、「それまでにどんなふうに生きていきたいか」を考えていく。
 
このように「どう生きるか」を考えるうえでよく語られる、有名なスピーチがあります。
2005年、Apple社の創業者であるスティーブ・ジョブズが、スタンフォード大学の卒業式で行なったスピーチです。
ここで語った、次のことばを耳にしたことがあるでしょうか。
 
今日が人生最後の日なら、あなたはどう過ごすか?
 
もともとはジョブズ氏が傾倒していた、禅宗の流れを汲んだ言葉だそうです。
たとえ明日命が尽きても後悔しないように、今日という日の自分の選択を、ひとつひとつ見つめよう。意義のある時間を過ごそう。
——そんな文脈で、あらゆる場面で引用されてきました。
たしかにこの「死まであと1日」というきわめて短い距離感は、人々をはっとさせます。
そして鼓舞する力も持っている。
日々のありかたを省みるきっかけになるし刺激をもらえる、すばらしい言葉でしょう。

一方でぼくは、正直、このことばを人生の指針にするのはちょっとむずかしいんじゃないか、とも感じています。
だって、仕事や家庭、自分が好きでやっている趣味だって、がんばれるときとがんばれないときがありますよね。
疲れている日もあれば、ちょっとイライラしている日も、かなしいことが起こった日もある。
それこそ死ぬまで、24時間365日「今日が人生最後の日なら……」と意識するのは現実的ではありません。息切れしてしまうでしょう。

それに、もしも今日が人生最後の日だとして、
はたして仕事に行くでしょうか? 市役所の待合に並ぶか? 歯医者に行くか? いつものように、家の掃除をしたり庭の草を抜いたりするか? 
……そう問われたら、多くの方が「NO」と答えるのではないかと思います。

人生とは、日々のなんてことのない行為を積み上げていくもの。
「未来はつづいている」とどこかで信じているからこそ、今日をがんばれるとも言えるのではないでしょうか。
 
と、えらそうに言いましたが、ぼくも「今日が人生最後の日」と言われたら、仕事はしないと思います(笑)。

納棺師の仕事には誇りを持っているし、日々は充実しているし、やりたいことや挑戦したいことはたくさんあるけれども、人生最後の日には家族と過ごしたい。
納棺は仲間である会社のスタッフに託し、妻と娘を連れ、実家がある北海道に帰ってしまうかもしれません。

だれに聞いても仕事人間と言われるようなぼくが、なぜそんな選択をするか。

納棺師は「逝ってしまうひと」に寄り添うだけでなく、「遺されたひとたち」の姿や表情をだれよりもよく見ているからです。

ひとの死やかなしみに直接触れる納棺師だからこそ、つまり毎日のように「人生最後の日」を迎えたばかりの方と相対し、遺された人たちがどんな思いを抱え、どんな感謝や後悔を抱くか見てきたからこそ。

「ラスト一日」はなにを差し置いても、まわりの大切な人たちに自分の思いを伝える日にしたいのです。

「死への距離感」を決める

少し、話しが逸れてしまいました。
死を意識することは、「どう生きるか」を考えるきっかけになる。
まずは死への距離感を決めたいけれど、ジョブズのようにストイックには過ごせない、というお話でしたね。
 
さて、「今日が人生最後の日」とはなかなか思えないぼくですが、もちろん毎日を漫然と過ごしていいと思っているわけではありません。
それではやはり、死が見えてきたとき、確実に後悔してしまいますから。

そこで、ぼく自身は「死への距離感」を6ヶ月としています。

「あと半年後におくられる」と想定して、ここから6ヶ月間でなにをするか決めていくのです。
半年間元気でいて、本気になればだいたいのことは叶えられるのではないかと考え、この長さに設定しています。

余命半年」ですから、ぼくは基本的にかなり時間にわがままだと思います。
だって、「時間は命」なのですから。
そう切実に感じているから、いつも「この時間の使い方でいいかな?」と答え合わせをしている気がします。

たとえば、気乗りしない飲み会や集まりに参加することはありませんし、「会いたい」と思ったひとにはなるべく会いにいくようにしています。
また、講演会などで地方に行くときも、帰れるときはなるべく自宅に戻るようにしています。
まだ幼い娘との1日は、「残りの人生」のなかでかけがえのないものだからです。

もちろん、6ヶ月ではどうしようもないこともあります。
娘が生まれる前からぼくはずっと子どもがほしかったのですが、こればかりは授かりものですし、それに、どうがんばっても半年で赤ちゃんは生まれません。

そこで当時のぼくは「じゃあ諦めよう」ではなく、「甥っ子をめいっぱいかわいがろう」と考えました。
「残り半年」だからこそ、甥っ子と会う時間を大切にして、できるかぎりの愛情を注ごうというわけです。

このように、人生の期限が決まっていると、やりたいことに対して一歩でも近づくため「なにができるか?」と前向きに考えて過ごすことができるのです。

大切なあのひとも、半年後に死を迎える

同じように、大切なひとについても「半年後におくることになるかもしれない」といつも考えています。

父も母も妻も娘も、友人も会社のスタッフも。みんな半年以内にいなくなってしまうかもしれない、と。

ですから、その瞬間を迎えたときに「○○すればよかった」と後悔しそうなこと(親ともっと話せばよかった、おいしいものを食べさせたかった、など)はなるべく意識して実行したいと思っていますし、
「○○しなければよかった」と思いそうなこと(スタッフを強い口調で責めるとか、夫婦間で「いってきます」を言うときにケンカしたままだとか)は、避けるようにしています。

要は「おくる」ときのことを考えて、接しているわけです。
 
たとえば、生まれ育った故郷から離れて生活されている方。
「たまには帰らなきゃ」と思いつつ、忙しかったり目先のことに追われたりして、なかなか家族や地元の友人に会えずにいるという方も多いのではないかと思います。

でも、あと半年後に親が死ぬとわかっていたら、どうでしょう。
もっと電話したり帰省したりしよう、と思うのではないでしょうか。
感謝を伝えたり、ずっと行きたいと言っていた温泉旅行に連れていったりしようとするかもしれません。

もちろん、いざ大切なひとが亡くなると後悔はついてくるものです。
それは仕方がない。そのひとにだけ尽くすなんて、なかなかできませんから。
でも、防げる後悔は防ぎたいですよね。
かなしさやショックは減らせないけれど、後悔は減らせるはず。ぼくはそんなふうに考えています。
 
ちなみに納棺や葬儀をしていていちばん耳にする後悔は、「もっといろいろなところに連れていってあげればよかった」。
次点が「もっと話しておけばよかった」です。

近況報告や雑談もそうですし、ルーツや親御さんの子どものころの話って、意外と知らないんですよね。
ぜひ、大切なひとと過ごすことができる残りの時間を意識してみてください。
 
このように「死への距離感」を決めると、自分に対してもひとに対しても、「後悔しないためにどうするか」という発想になります。

「いつかしよう」と思っていることを、できるだけ実現しようとする。
時間の貴重さを痛感し、大切なひとに愛情を注ぐようになる。
こころの動かないもの、ただ時間を浪費するような行動を避けるようになる。

——これが、死を味方につけるという感覚です。毎日を見る目が、変わっていくのです
 
ぼくはこの6ヶ月のリズムを意識すると調子がいいのですが、もちろん人によってペースはさまざま。
6ヶ月ではなく1年、あるいは2年という方もいらっしゃるでしょう。

いずれにしても、死を意識して、命の期限を設けてみることです。そうすることで「やりたいこと」「やったほうがいいこと」「やりたくないこと」「やらなくていいこと」が、自然と浮き上がってくるはずです。

つづく


※本記事は、『だれかの記憶に生きていく』(朝日出版)から内容を一部編集して抜粋し、掲載しています。

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