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5. 死は100%おとずれる唯一の「ライフイベント」

納棺師の木村光希(きむら こうき)です。
だれかの大切な人である故人さまと、大切な家族を亡くしたばかりであるご遺族の、最後の「おくられる場」「おくる場」をつくることをなりわいとしています。 

死は100%おとずれる唯一の「ライフイベント」

いまも忘れることができない、まだ駆け出しのころに担当させていただいた、あるご夫婦の納棺があります。
交通事故で同時に亡くなられたそのご夫婦には、高校生の男の子がいました。ひとりっこの、3人家族でした。

言うまでもありませんが、お父さんとお母さん、どちらかを亡くすだけでもとてもつらいことです。
それなのに、その少年は両親を同時に、しかも突然失ってしまった。
彼の痛みや混乱がどれほどか、「駆け出し」ということを差し引いても想像できるものではありませんでした。

きっと朝、いつものように「いってきます」と言って玄関を出たのでしょう。
思春期まっただ中ですから、ちょっとそっけなかったかもしれない。
それを、後悔しているかもしれない。
家に帰ったら夕食が用意されていて、それを食べながらなにげない会話を交わす、そんな「日常」が待っているはずだったのです。

ご夫婦だって、たったひとりの子どもであるこの少年の未来を信じ、またたのしみに描いていたことは間違いありません。
その未来を見守れることを、応援できることを、疑っていなかったでしょう。

きょうだいもおらず、ご親族も少ない様子でした。
これからひとりでかなしみを受け止めなければならない17歳の彼に、なにかすこしでもケアにつながることばを……そう焦る自分がいました。

しかしその子は、もうほとんどコミュニケーションを取ることもできない状態。
ただ声とも言えない声をあげて泣きつづけ、火葬場では立っていることもできなかった。
故人さまとの思い出を振り返る、どころじゃないわけです。

その姿、かなしみ、残酷さを目の当たりにして、ぼくはなにもできませんでした。
なにか伝えたいと思いつつも、余計なことを言ってしまったらどうしようと、かけられることばが見つからない。

自分にできることなど、なにもない——まるで腫れ物に触れるかのような気持ちと無力感を、いまでもはっきりと思い出せます。

当時は実力不足だった、いまだったらもっといろいろなかたちで彼のサポートができる、と思うのですが……あのいたたまれなさと後悔は、ぼくの胸に残りつづけています。

 

納棺師という仕事をしていて毎日のように突きつけられるのが、「人はみんな死を迎える」という厳然たる事実です。
いつかはだれもが「おくられるひと」になるのです。

たとえば入学や卒業、就職、出産といったあらゆるライフイベントは、経験する人もいれば経験しない人もいます。
「成人式」「還暦のお祝い」のような年齢ごとに発生するイベントも、その年に達する前に亡くなればそれも叶いません。

また、「結婚するまでには」「仕事が落ち着いたら」○○したい、といった人生の区切りと目標をなんとなく思い浮かべる方は多いと思いますが、これらの区切りもまた、やってくるかはわかりません。
結婚しないかもしれない。仕事で落ち着くことなんて一生ないかもしれないわけです。 

ところが、「死」だけは100%全員におとずれます。死を経験しない人は、ぜったいにいない。
「うちの子にかぎって」も「わたしだけは」もありえない。

いま地球上にいるだれもが経験する、唯一のライフイベントなのです。

しかもそのライフイベントは、いつやってきてもおかしくありません
昨日までふつうにしゃべっていたお父さんが、子どもが、ふっといなくなってしまった……ぼくは、そんなご家族をたくさん見てきました。 

事故で。病気で。事件で。驚くほどあっけなく、ひとはいなくなってしまいます。
今日という日を無事に迎えられたこと、そして明日が来ることは、なにものにも代えがたい奇跡です。

しかし、そんなある意味で究極の「自分ごと」であるはずの死ですが、多くのひとがあまり考えを巡らせていないのが実情です。
とりあえずいま元気な自分には関係ないものだ、そんなことを考えてもしょうがない、縁起でもない、とできるかぎり遠ざけているのです。

死があるから、生き方を考えられる

では、不意打ちでやってくる「死」とは、おそろしいものなのでしょうか?
 
ぼくは、そうは思いません。
少なくともぼくにとって、死は恐怖ではなく……ただシンプルに、「いまは嫌だな」という感覚が近いかもしれません。
「いずれ来るのは重々承知しているけれど、いまは勘弁してほしいな」という感覚。覚悟や恐怖ともちがう、もうすこしカジュアルな感覚です。

おくること、そしておくられることは、とても自然なことです。
決して特別なことではないし、ましてやタブー視すべきものではないんですね。

死が必要以上に怖がられたり避けられたりしているのは、先ほど言ったように、それについて考える機会があまりに少ないからではないかと思います。リアリティがないから、目を逸らす。
そうして蓋をするからこそ、おそろしいものに感じてしまう
のです。

しかし死は、いまこの時間の延長線上にあります。
高いところからモノを落とせば下に落ちる。
生きていればお腹が空く。
それと同じで、生きなければ死ぬことはないし、死を迎えない生もないのです。

だから死について考えるのは、不吉なことでも「縁起でもないこと」でもないんですね。

みなさんにお伝えしたいのは、むしろ死は、その存在を知っておくことで味方にできるということです。

なぜか。自分が迎えるであろう死を想定し、逆算することで、「どう生きるか」を真剣に考えるきっかけになるからです。

死を考えることは、生を考えること。生きる意味を問い、「どう生きるか」を考えることにつながります。

その存在を頭に置いておくだけで、今日の行動や目の前のひとを見る目が変わる。

そうすることで、日々をより濃く、豊かなものにできるのではないでしょうか。

 つづく


※本記事は、『だれかの記憶に生きていく』(朝日出版)から内容を一部編集して抜粋し、掲載しています。

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