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水滸伝 白虎の章(十三)

読んだ本:水滸伝 白虎の章(十三)
作者:北方謙三

【シリーズのネタバレ注意】
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この記事の作者は以下の本を読んでいます。
よって予期しないネタバレをするかもしれませんがご了承ください。
北方水滸伝・楊令伝・岳飛伝・チンギス紀を読了済み。
(楊家将・血涙・史記シリーズも読んでます)
15年ほど前に水滸伝読了後、最近になって続編を読破。その後水滸伝を読み直し中。ふと感想を書きたくなってこのシリーズを開始。
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楊春が旅から帰ってきて、驚くほど成長をしたという話が郭盛視点で描写されていた。早く楊令と郭盛の再会も待ち遠しいけど、大人になってから精神的成長を遂げる機会があるってのは幸せなことだよなって思った。

そもそも近くに自分より精神的に成熟した人がいないときっかけすら気づかないし、仕事や家庭で環境的な制約で向き合うということができない。特に現代においては学生時代以外に教えてもらうという時間ときっかけすらないんじゃないかな?社会人になっても一度レールが外れると出世の道が絶たれる風潮が大きいし、一旦離職して無の期間を作ること自体がリスクが大きい時代。(学生時代も受験勉強で詰め込まれてしまい、ないのかもしれない)

仮に教えてくれる人が身近にいたとしても、当の本人にとっては本質に気づくまでは理不尽な課題としか思えないので、○○ハラスメントの悪い側面と勘違いされて双方不幸に陥るという悪循環になってるように思える。
そう考えると現代で精神的成長を得るきっかけはほとんどないんじゃなかろうか。人間関係とかで苦しむ直面になったときにどう対応するかがメインになっていそう。自己啓発本読むくらいか。自己啓発本もあらゆる手法で本当の自分を探そうという主題が多いもんな。

昔は戦いや社会制度の未熟さ故に生死がより近い生活で死に近づくと人間の防衛本能が働いて自分を偽るとかの偽りの感情に気づきやすく、また戦人として鍛えることで内面も成長し。それを乗り越える経験が多々あったんだろうと想像できる。その時代で年を取るということは運よくともあるし、あるべき苦難を乗り越えて精神的に成熟していた人の確率が多かったんだろう。老婆心ながらという言葉も今よりも重かったのかもしれない。

楊春は解珍との旅でただひたすらに「ひとりだ」ということを自分と向き合い続けて気づいたとのこと。それまで思っていた部下や仲間と一緒だということが実は自分のためだったということに気づいた。これはよくある話の「あなたのため」にと思っておせっかい焼いて否定されるとブチ切れる人は他人のためと見せかけて実は自分のために言っているんだという心理と同じ。(心理学の専門用語でなんというかしらないけど)
将校がその心理だと表面的には部下想いで理想の将校なのかもしれないけど、味方がやられて消耗していく場面になると耐えきれなくなって自ら自決するタイプになっちゃう側面もあるだろうな。

朱仝の死にざまが格好良かった。死域に入って限界を迎えてもなお立ち向かった生き様でした。武を極めたものは死域に入った人間を見ただけで助かる助からないが分かるという描写も格好いい。この本に覚悟を決める描写があまりないのは死域に入る=死ぬ側に入るというのが一般常識化しているからだろうなと思った。

宋江や宗清の父の宋大公が寿命を迎えて死んだシーンもありました。実の息子が国家反逆に命を捧げてしまう生き様の心境は辛いものがあっただろうなと思う。ホントは息子たちと穏やかに畠仕事で過ごしたかっただろう。親としての覚悟が素敵でした。死ぬ直前に武松や李逵が息子替わりに過ごしてくれたのが不幸中の幸いだったと思いたい。
それにしても作者はこういう細かいところまできちんと描写されて格好いいと思わせる生き方をさせるのがすごいなと思った。

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