他人の意見を基準にして生きてしまっている

仕事でも仕事でなくてもなんでも、「あの子だったとしたら」という誰かの名前が頭の中をヒュンと通り過ぎ、その一瞬がAかBかを決めてしまうことがある。


何に置いても、独りよがりにならないことはマイナスなことではないだろう。相手の気持ちを理解しようとすること、自分だけのものさしで事象を測らないこと。こういう人間は褒められるべき対象である。


ただ、私の冒頭のそれとは違っている。


私が全く褒められるべき対象ではないのかと言われれば、それは否定したい。
自分の気持ちだけを押し通さないようにしている。相手が嫌な気持ちにならないように、なってほしくないと気を遣おうとしている。生まれ持ったものでなくとも、そうあろうと思い、生きているつもりだ。


そういう努めるような優しさとは全く、まっっっっったく別に、私の選択/判断のものさしは、私ではない誰かが握っていることがほとんどだ。

私が好きだと思っても、あの子が好きでないものの魅力は半減してしまう。
あの子が好きだと言ったものは、私が好きだと思ったものよりも上になる。
あの子が好きだと言ってくれたら、私のそれへの好きはもっと大きくなる。

自分が好きなものは、その気持ちだけで良いはずなのに。
私がどう思うかだけが大切で、それ以上でも以下でも無いはずなのに。


私のものさしを握っているのは、あの子だけではない。

友達・推し・母親・同期・先輩・上司・SNS・店員・世論・社会・世界…



私が何を好きか、何を素敵だと思うか、何に心が動かされるのか、何を面白いと思うか、何に涙を流すのか、どんな自分でいたいのか、どんな風に生きていくのか。

全てが自由であるはずなのに、人の目を気にして、人の意見を気にして、知らない間に人のものさしで測られてしまっている。


そのものさしは目盛りがでたらめかもしれないのにも関わらず、気がつくと私はそれに従ってしまっている。そして気づいても、それに抗うのには頭も心も使わなければいけず、そんな体力を持ち合わせていない私は黙ってしまう。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?