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なんでもない自分話

中学生に入ってすぐ、ギターを始めた
家庭教師をしていてくれた方のご主人がギターをやっているということで、教えてもらうことになった

彼曰く、「ギターは楽しい時には楽しい音が出るし、悲しい時には悲しい音が出る。音楽はいいよ」とのことだった

クラシックギターを勧められたのでクラシックギターと教則本を購入して練習を始めた

ドレミファソラシド
ドレミファソラシド
ベートーベンの喜びの歌のメロディを弾いたり
正直、楽しくなかった

僕は長渕剛が弾きたかった
クラシックギターの練習はそこそこに、長渕剛のコード曲集を買ってきて練習を開始した
楽しかった

ただ、後々気づいたのは、この時のクラシックの練習が何かと自分にとって役に立っているということだった

どんなことも無駄なことはないものだ

ところで、音楽は楽しい時や悲しい時にその音が表現できるものなのだろうか
僕はまだそれについては実感はない
自分の人生が表現に反映されることは確信しているが、感情がそのまま反映するのか

そういう時もあるだろう、それは悲しくてご飯も喉を通らないなんてのと同じだ
でも、大人になると感情とは裏腹にやらねばならぬ時がある
悲しくても楽しく弾くとか
悲しいからこそ楽しく弾くとか

仕事なら尚更に自分の気持ちとは関係ない


少し自分について書く

僕は自分の思うままに作る作品はとにかく辛気臭いと思う
何か陰気である
これは僕の心の奥底にある陰気くささがそのままえぐり出されているのだろうと思う

感情を表現できているではないか!
と思うかもしれないが、それは大きな間違いで
もっと根本的な自分の性格のようなものが表れているということなのだ

表面的な感情ではなくもっと泥臭い人間性みたいなものである

例えば、悲しい時短調の曲を弾くとしよう
これは本当に悲しくて泣いてしまいそうになっていたたまれなくなる

ただ、僕は短調の曲がそもそも嫌いなのでできれば弾きたくない
短調というだけで感情に関係なく辛気臭くて悲しいではないか
そんなものを僕はやりたくないのだ

そう思っているにも関わらず、自分が作ると短調や長調などという枠組みを越えて辛気臭いものができあがるのである

自分なりに自己分析を行うと
たぶん、僕はそもそも辛気臭くて陰気な人間で、だからこそ短調などのくらい曲が嫌いなのだ
暗闇に引きずりこまれるような気がして聞きたくないのだ

これは音楽だけにとどまらない
ドラマや映画、絵画などのアートに至るまで
何やら辛気臭いものを見るのと心が苦しくて嫌悪感しか感じないのだ

「ギターは楽しい時には楽しい音が出るし、悲しい時には悲しい音が出る。音楽はいいよ」

この言葉は僕の中でずっと引っかかり続けている

今日はなんでこんな暗い記事なんだ(笑)

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