丹敷浦の候補地ー新宮市三輪崎

暴風に遭遇した神武の船団は漂流した挙げ句荒坂津に上陸します。別名を丹敷浦といい、ここで原住民の丹敷戸畔を滅ぼした後、全員が気を失うという大きな危機に見舞われます。『古事記』『日本書紀』に書かれている神武のエピソードのうちでも最悪と言えます。そういうところから、この場所はどこだろうかと、大きな関心をもたれて何ヵ所かの伝承地があります。その場所を考えるのにポイントが3つあります。まずは、「あらさか」或いは「にしき」という地名があるか、または丹敷戸畔の伝承があるかどうか。次に佐野から北上したとして、暴風によって押し流されたか、押し戻されたか。3つ目は、新宮にいると想定されるタカクラジが剣を持って短時間で来ることが出来る場所かどうかです。それでは具体的な候補地をみていくことにしましょう。
まずはズバリ熊野荒坂津神社が鎮座する三輪崎です。三輪崎は出港地の佐野のすぐ近く目と鼻の場所ですから、悪天候が予想されるなか船を出したとは考えられません。おそらく押し戻されてきたのでしょう。国道42号線からよく見えるように「神武東征上陸地」の看板があり、国道沿いの進入路を上がると熊野荒坂津神社があります。手前にはタカクラジを祀る高倉大明神。この神社は、明治百年を記念して創建された新しい神社。個人のお宅と接しています。祭神は神日本磐余彦尊(カンヤマトイワレヒコ、神武天皇)とその皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)、イスズヒメは神武が荒坂津に上陸した時点ではもちろん皇后ではありません。そして布津主命(フツヌシ)です。フツヌシはタカクラジが届けた剣を神格化したものです。さらにこの神社だけでなく近くに丹敷戸畔の塚があるという「おな神の森」があります。「おな神の森」は、紀勢本線や国道42号線というこの地域の動脈の近く、熊野古道中辺路の高野坂(こうやざか)にある「金光稲荷神社」の森で、そこに石祠があるようです。高野坂は新宮市の広角(ひろつの)から三輪崎までの御手洗(みたらい)海岸沿いの約1•5km、高低差50mほどの坂で石畳や石仏もあり、また聖護院門跡の休憩所跡もあります。「おながみ」という言葉は、江戸時代に眺めが素晴らしいことから、「おながめ」と呼ばれ、それが「おながみ」になったと言われていますが、もしかしたら「おんな神」がなまったのかもしれません。御手洗海岸は、三つのタライからついたとも言われますが、神武がトベを滅ぼした時に、血で汚れた手を洗ったという伝承もあります。こちらのほうが生々しいです。
以上三輪崎にある荒坂津神社周辺の伝承を紹介しましたがなるほど候補地としてふさわしいと思わせます。またこの場所はタカクラジが剣を届けるのにも便利です。ただこの場所の欠点は、神武軍が丹敷戸畔を攻撃したのが最初にこの地に来た時でなく、暴風で押し戻された後ということです。最初は友好的であったのが、出戻りした時にトラブルになったのかもしれません。
次に、暴風により命を失った二人の兄を祀る神社があり、その近くが神武の上陸地だとする伝承がある場所にご案内します。

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