串本町の丹敷戸畔の墓

和歌山県東牟婁郡串本町二色(にしき)にニシキトベの墓と伝えられる石の小祠があります。JR串本駅の西約3km、国道42号線に沿った小山にあります。私が神武の出港地と推定している佐野からは本州最南端の潮岬を越えた西側になります。神武の一行が嵐に遭遇して流されたとすればかなり流されたことになります。
この場所に行くには、大阪からですと阪和道から紀勢自動車道に入り、すさみ南インターチェンジでおりて、42号線に入り、串本に向かい、潮岬の半島が見えてくるころ、道路の左側にトルコの目玉のオブジェがあり、それが目印になります。これはナザール•ボンジュウというトルコのお守りをかたどったものです。ナザールはアラビア語の山に由来し、視覚、監視、注意などの概念を意味し、ボンジュウはビーズ。青いガラスに中心から青色•水色•白色の着色で目玉が描かれ邪視から災いをはねのけると信じられています。トルコの代表的なおみやげでもあります。串本はトルコとの間に深い友好関係があります。それは映画にもなりましたが、トルコ軍艦エルトゥールル号の海難事故が契機になっています。当時はオスマントルコ帝国で、皇帝が日本への親善使節団を派遣しました。明治23年(1890)のことです。使節団は明治天皇に拝謁し、歓迎を受けて帰国の途につきます。横浜を出港した翌日、串本大島の樫野崎の沖で台風に遭遇し、波をがぶってエンジンが爆発して大惨事になりました。この軍艦が木造船だったことも被害を大きくした一因です。大島の島民は不眠不休で遭難者の救助、遺体の捜索収容にあたりました。大島にはトルコ記念館やトルコ軍艦遭難慰霊碑があります。神武一行が遭遇した嵐もこのようなものだったのでしょうか。
ニシキトベの墓のある場所は、このオブジェの反対側、国道をはさんだ海側にあります。津波避難階段に「戸畔の森登り口」の標識があります。その標識にしたがって階段を上るとほどなく頂上に出て照葉樹林の中を進むと開けた場所があり、その奥に小さな石の祠が少し傾いた状態でたたずんでいます。まわりには丸石やサンゴが供えられています。草に埋もれたり、放置されてはいないようです。「戸畔の森」ともあり、その案内の標識もありますから、誰かが管理をしているのでしょう。津波避難階段ということですから、非常事態に備えて地区の住民が世話をしているのかもしれません。串本は南海トラフの地震が起こると、短時間で津波が押し寄せるということですから、他人事ではありません。
ニシキトベの「戸畔(トベ)」は、刀自(トジ)、戸口を支配する者の意味で、一家の主婦。戸女(トメ)の「メ」が(ベ)に転訛した言葉で、女性の族長をさします。紀伊国には、名草戸畔や荒河(あらかわ)戸畔の名前が史料にあります。名草戸畔は神武に滅ぼされた時に、その身体は三つに切断され、頭は宇賀部(うかべ)神社(別名おこべさん)、胴体は杉尾神社(おはらさん) 、足は千種神社(あしがみさん)に祀られて、今も信仰されています。また名草戸畔は名草姫命として弟の名草彦命とともに中言神社に祀られています。卑弥呼と弟の関係を連想させます。荒河戸畔の娘は崇神天皇の妃となり、豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)を生みます。ヒメはそれまで宮殿で祀られていたアマテラスの神霊を笠縫邑(かさぬいのむら)に祀ったとされる巫女としての性格を持つ女性であり、その霊感体質は荒河戸畔から受け継いだものでしょう。戸畔といわれる存在は単なる族長というよりも、卑弥呼のような霊能力者であったということで、当然丹敷戸畔にもその能力が備わっていて集団を率いていたということです。

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