ニギハヤヒは日本の王

『旧唐書』『新唐書』にある「日本」とはどこにあったのでしょうか。その手がかりになるのは、日の本という表記にあります。平仮名だと「ひのもと」「ひ」とは太陽。今でも太陽を「お日さま」と言います。「もと」は「下」。これを合わせると太陽の下にある場所ということになります。朝日に輝く場所ということです。「日下」と書いて「くさか」と読みます。「長谷(ながたに)の初瀬(はつせ)」で「長谷(ながたに)がはせ」「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」で「春日(はるひ)がかすが」と読むのと同じです。どちらも人名でもあり、地名でもあります。人名の日下さんは知られていますが、地名の日下は東大阪市の東側の生駒山の麓にあり、石切神社の北側に日下町があります。ここは「日下(ひのもと)の草香(くさか)」と言われた場所です。「草香」は神武が大和入りのために上陸した場所です。当時の河内はこの付近まで海になっていました。ここから大和に行くには二つのルートがあります。一つは大和川沿いの竜田越え。現在のJR大和路線。もう一つはここから生駒山を越えるルート。現在の近鉄奈良線です。昔も今も大阪と奈良を結ぶ重要なルートです。神武は最初は竜田越えのルートを採りますが、道が狭く進軍が困難だったため、生駒山を越えることにします。それを聞きつけたナガスネヒコとの戦いに神武側はイツセが負傷するなどの敗戦を喫して熊野に向かうことになりますが、その戦場が孔舎衛坂(くさえざか)です。この坂の名前の「衛」は「衙」の誤りだと言う説があります。そうするとこの坂の名前は「くさかざか」。「日下(草香)の坂」になります。そして生駒山の山中に「神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑」があります。神武の顕彰碑は阿須賀神社に「熊野神邑顕彰碑」がありますが、昭和15年(1940)に皇紀2600年を迎えるにあたり、当時の文部省が中心となって神武に所縁の場所を調査して該当する場所に建てたものです。
東大阪市の生駒山の麓が「日本」で、それが神武の率いる倭国の軍によって併合されたというのが『記紀』のその後の展開です。それは『新唐書』の記事と同じです。
それでは、この日本を誰が治めていたのか?それはニギハヤヒ!。石切神社の伝承にある、ニギハヤヒが天磐船に乗ってこの地に来たときに、「虚空にみつ日本(やまと)の国」と称賛したことが日本の国号の始まりとなったということにあります。(「石切神社の伝えるニギハヤヒの伝承(1)」参照)。そしてニギハヤヒは新しい技術をもたらしたことで、ナガスネヒコの鳥見一族はニギハヤヒを主君にしたとあり、ニギハヤヒがもたらした技術のおかげで、日本(日の下の草香)だけでなく、ナガスネヒコの本拠地である鳥見も繁栄したとあり、そこに強力な武力を持つ神武の軍がやって来て、ニギハヤヒが降伏し、日本が倭に併合されたということになります。
ここでもう一つ言えることはニギハヤヒは霊能力者であったということです。十種神宝を用いて病を治したということが『旧事本紀』の記事からうかがえます。
神武には『記紀』の記述を見る限りではそういう能力は持っていなかったようです。
ニギハヤヒの足跡をたどる事で、その実像に迫ります。


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