真弓塚はニギハヤヒの墓?(1)

ニギハヤヒの墓は前章の「登彌神社とニギハヤヒの墳墓」に書きましたが、『大和志料(やまとしりょう)』に「真弓塚」がその場所だと書かれています。それを紹介する前に『旧事本紀』の「天孫本紀」にあるニギハヤヒの最期についての記述を紹介します。
「高皇産霊尊、哀泣(あはれ)とおぼして、すなはち速飄命を使て以命(みことおほせ)て天上にひきいて上り、その神の屍骸を日七、夜七もて遊楽哀泣哭(えらきかなしみ)して天上に斂意(をさめをはり)ぬ。饒速日尊、夢をもて妻•御炊屋姫に教えて云く、『汝の子、吾が如く形見の物とせよ』と、すなはち天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)を授く。また天の羽弓矢、羽々矢複、神衣帯手貫の三つの物を登美の白庭邑に葬斂(かくしおさめ)て、これもて墓者と為す」とあります。前にも一度書いていますがここで補足します。ニギハヤヒは妻が妊娠している間に亡くなってしまい、それを哀れに思ったタカミムスビが速飄神(ハヤチノカミ)に命じて天に届けさせて葬儀を行います。ニギハヤヒは妻に天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから、すなわち十種神宝)を授け、生まれる子への形見とします。地上ではニギハヤヒの弓矢などを遺体の代わりに登美の白庭邑に葬むったということになります。
天孫本紀では、ニギハヤヒはウマシマヂが生まれる前に亡くなっており、十種神宝をウマシマヂに形見として渡しています。この記述に従えば、神武に降伏したのはウマシマヂです。ウマシマヂは物部氏の始祖ですから、物部氏としては裏切り者をニギハヤヒにしておいたほうが都合がよかったかもしれません。
ハヤチノカミは、速飄別命(ハヤチワケノミコト)と言い風の神で、疾風や迅風とも記され、一説には風の神の志那津比古(シナツヒコ)の荒御魂とも言います。ハヤチノカミはタカミムスビの命令で天降りした後のニギハヤヒの状況を見に来たところ、ニギハヤヒが亡くなっていたので、それをタカミムスビに報告しました。上の引用文はその続きになります。ハヤチノカミは風の神ですから、竜巻でも起こしてニギハヤヒの遺体を天に届けたのでしょう。ダイナミックな話です。
さてニギハヤヒの地上の墓は「登美の白庭邑」とあります。それが前章で書いた白庭台とされ、墓があります。白庭台はここを開発した近鉄不動産がニギハヤヒの伝承に基づいて名前をつけたもので、墓の場所は桧窪山と言い、この墓は「山伏塚」とか「山王」と呼ばれており、一帯はもとは北倭村(きたやまとむら、旧生駒郡、1957年生駒町に編入され、現在は生駒市)の「白谷」と呼ばれていた場所なので、これを根拠に白庭山に比定され、そして「山王」と呼ばれていたことからニギハヤヒの墓となったようです。「登美」は「鳥見」さらに「鵄(とび)」。それが現在では「富雄」。そこには富雄川が流れており、その流域に所縁の場所があります。
この桧窪山から直線距離で2km離れた場所に「真弓塚(まゆみづか)」があります。この塚は真弓山長弓寺(ちょうきゅうじ)の創建伝承に由来するとして寺が管理していますが境内の外にあります。この寺の創建伝承は、神亀5年(728)聖武天皇の狩りに同行した当地の豪族小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)が伴った息子が不思議な鳥が飛び立つのを見て放った矢に当たり亡くなったのを哀れに思い、天皇が
行基に命じて寺を建てました。天平18年(746)とされています。彼を埋葬した場所が真弓塚だと伝えられています。また寺の本尊の十一面観音の頂きにある仏面は聖武天皇の弓から彫られたと言います。本堂は鎌倉時代の建築で国宝に指定されています。真言律宗。住所は生駒市上町(かみまち)4443。近鉄けいはんな線「学研北生駒」駅から南に徒歩15分。
長弓寺の由緒や真弓塚の由来をみるとある意味完璧で、どうしてここがニギハヤヒの墓所と言われるのか不思議です。それについては次章に書きます。




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