熊野権現御垂迹縁起(1)

「熊野権現御垂迹縁起」。長いタイトルです。「くまのごんげんごすいじゃくえんぎ」と読みます。滑舌のテストみたいです。「縁起」というのは社寺の由来。いわゆるプロフィール。有名な社寺には必ずあると言えます。中にはビジュアルの絵巻物になっていることもあります。内容は荒唐無稽と言っていいのですが、何らかの真実が投影されていることも否定できません。この熊野権現縁起は「長寛勘文(ちょうかんかんもん)」という公文書に収録されている熊野の縁起として最初の公的な史料です。熊野権現について述べる時には必ず登場します。「長寛勘文」の「長寛」は二条天皇の年号で、1163~64年。二条天皇は後白河院の皇子。「勘文」は朝廷が専門知識を持つ学者に問い合わせをして、学者が回答した文書です。現代で言うと有識者会議の報告ということになります。この勘文が作られた事情です。こちらも歴史的に重要な事件に関係します。近衛天皇の時代の久安年間(1145~51)に甲斐(山梨県)の国司が熊野権現の霊験を授かったとして朝廷の許可を得て国内の八代(やつしろ)荘園を本宮に寄進します。八代は現在の笛吹市で、ここには現在でも熊野神社があります。この国司は荘園を寄進するほどのどんな霊験を授かったのでしょうかね。ところが応保2年(1162)新たに就任した国司が部下を現地に派遣し、部下は在地の役人と共に兵を率いて荘園に乱入し、強制的な年貢の取り立てや暴行を働き、荘園の機能を停止するという事件が起こります。当然本宮は朝廷に訴えます。朝廷から裁定を命じられた明法博士(みょうほうはかせ)は、ことの経緯とこの縁起を基に、伊勢の神と同体てある熊野権現を侵犯したことは重大な犯罪であると報告します。報告のことを勘申(かんしん)と言います。勘申の文書で勘文。明法博士はいわば法律の専門家。これを受け取った朝廷は、荘園の問題よりも、伊勢の神(天照大神)と熊野の神が同体であるということに関心が移り、さらに詳しく専門家に諮問します。結果はこの同体説は否定されますが、国司は有罪で伊予国(愛媛県)に島流しになります。それではこの縁起の内容をみていきたいと思います。


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