人工知能論と哲学の交差点で

道具としてのコンピュータと哲学 その1 哲学について なぜ哲学が大事なのか

はじめに

かつて、ユビキタスコンピューティングということが言われた時代があり、このときに道具としてのコンピュータが環境としてのコンピュータとなり、現在はディープラーニングをつかったロボットが環境を意識して活動をしている。また、道具としてのコンピュータが人間とどのようにインタラクションをするのかがユーザーインターフェイスからユーザー経験のデザインへと展開して現在がある。ここにきてロボットが環境をどのように認識するのか、人間とロボットの関係はどうなっていくのか、が議論されているときに、その哲学的なバックグラウンドを理解しておくことが大切だと判断して、何回かにわたってこの問題を展開したいと思う

なぜ哲学が大事なのか

インタラクション技術をつかってコンピュータと人間がインタラクションをおこなう状態をデザインするHuman Computer Interactionという領域がある。ディープラニーングを活用したロボットが人間の日常生活に登場するようになり、もう一度CHIのの背後にある哲学について批判的に検討しておくことが非常に大切である。というのもコンピュータと人間がインタラクションをするという行為をあまりに素朴に考えてものを作ってきた歴史があるからだ。
 
人間とコンピュータの間のインタラクションは長い間HCI(Human Computer Interaction)という分野で研究されてきた。またこれは純粋な技術問題だと多くの研究者が考えていた。だが、その考え方が根本的に間違っていると強く主張したのが2001年に Where the Action Is: The Foundationsof Embodied Interaction(The MIT Press)を出版したポール・ドーリッシュ(PaulDourish)である。
 
彼は、この本をコンピュータサイエンスは1930年以前の哲学に準拠していると述べたマシュー・チャーマーズ(Matthew Chalmers)の議論から始める。チャーマーズもまたこれから展開するディープラーニングを駆使したロボティクスを考えていくときに重要な研究者である。チャーマーズは、コンピュータサイエンスは非常に高度な行動を哲学的にとてもレベルの低い機械的な説明へと矮小化し、純粋な科学的合理性に従って形式化してしまっているという。科学哲学的にいうと実証主義(positivism)と素朴な還元主義に留まっているという主張である。またコンピュータサイエンスが援用する認知科学も、身体と精神、認知と活動を二つに分けて考えるデカルト主義の枠組みから一歩も出ていない。確かにこうした二元論は長い伝統を持つが、1930年代にマルチン・ハイデッガー(Martin Heidegger)やルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)という哲学者たちが登場してきて、認知、言語、意味といった言葉が示す世界を大きく変えた。
 
この新しい哲学が現象学である。現象学の特徴は身体なき合理性の考え方を放棄して、身体を持った人間、つまり我々が、普通に生活している日常の世界で、ものや環境と実践的にインタラクションを行うときに感じ取ることができる主観的な意味こそが哲学や心理学の対象であるべきだとしたことである。
 
なぜ現象学がコンピュータサイエンスと関係があるのか?エンジニアリングは理屈をこねくり回す哲学とは関係がないではないか、と普通は考えるだろう。哲学的議論が科学的な進歩と何の関係があるのか、と思うのが自然だ。だが、コンピュータをつかった活動はそれ自体が非常に哲学的な仮説をもったものなのである。わかりやすい例は人工知能を巡る論争である。フィル・アグリ(Phil Agre)は 1997年に出版したComputation and Human Experience (Cambridge University Press)で「テクノロジーは背後に哲学を隠し持っている。しっかりと明確にテクノロジーを哲学の問題から検討するべきだ」と述べている。これは論理計算装置としてのコンピュータを、現実の物理的な世界の仕組みと同一視する素朴な実証主義が人工知能の技術の背後に隠れているということだ。同じことがコンピュータと人間のインタラクションの問題を考えるHCIの分野においてもいえる。たとえばユーザビリティ研究と認知科学の組み合わせのように、無批判に実証主義が入り込んでいるインタラクションデザインの分野は多い。人間の認知や行動をとらえる哲学的な枠組みを検討することなしにこれからのインタラクションデザインを行うことはできない、とドーリッシュは述べる。
 
人間とコンピュータの問題は人間と道具と環境に関する哲学的な考え方に深く関係している。コンピュータは機械ではない。どう定義すればいいのかなかなか難しい新しい種類の装置である。そのコンピュータを「機械」と定義して使ってきたのが今までの歴史である。コンピュータを機械として考えるのか、それとも今までにない新しい仕組みと考えるのかでインタラクションのデザインの方向性が全く変わっていく。この考え方の違いが現代哲学と重なっている。
 
コンピュータの哲学

さて、現代哲学は分析哲学と現象学の流れに大きく分かれているといわれている。人工知能は分析哲学の考えに従ってコンピュータを設計したものであり、その問題点を鋭く指摘したのが現象学を学んだ哲学者たちであった、とされる。これは間違いではない。だが問題はそれほど簡単ではない。すこしこの問題に触れておきたい。
 
大きな流れは次のようになる。デカルトからニュートンへと展開した近代科学の世界観が19世紀末には崩れていた。多くの人々はカントが統合した真実と美しさと正しさが統合した世界を感じることができなくなっていた。この世界を支えていたのは物理的な世界と数学が提供する論理的な世界が同一であるという考え方だ。人々はその同一性を証明する方法である実証主義に懐疑的になっていたのだ。19世紀末のロマン主義として議論されることが多いこの時代の雰囲気は哲学や文化の問題であるとともに、物理的な世界を科学していた物理学者が直面した問題であった。量子力学の登場につながるこの流れはまた科学哲学を生み出した時代でもあった。
 
さて、コンピュータで人間の知能が再現できるかどうかという問題に肯定的に答える立場も否定的に考える立場も、機械が人間や生物に取って代わることができるか、という議論をしている。だが、コンピュータがそもそも機械なのか、という問題がある。機械として使うことはできる。だが、それとは別のものと考えた方がいい。それは、コンピュータを生み出した基本的な考え方が、人間の歴史において今までにないものだったからだ。それは一言でいうと、物理的な世界をこえて、論理的な世界を構築することができる方法が発見されたということである。これは実に大きな発見であった。発見者はゴットロープ・フレーゲ(Friedrich Ludwig Gottlob Frege、1848~1925)である。
 
1930年代の哲学の大きな方向転換を生み出したのは現象学をとなえたエトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859~1938)であるが、それより少し前にフレーゲがアリストテレス以来2000年の論理学上の大革命を引き起こした。影響はイタリアの数学者ペアノ、ドイツの数学者カントール、デデキント、ヒルベルト、そして哲学者のフッサール、さらにはヴィトゲンシュタイン、そしてカルナップに及んだ。現在記号論理学と呼ばれている分野である。だが彼の影響を受けた数学者や哲学者が有名になっていく一方でフレーゲの名前は忘れられていった。
 
彼の名前は20世紀後半になって復権する。それは、われわれがインタラクションデザインを行うときにつかうプログラミング言語もフレーゲの功績無しには存在していないことがわかったからだ。フレーゲの業績をもとに、アメリカのアロンゾ・チャーチ(Alonzo Church、1903~1995)たちがラムダ計算や機能的関数論を展開した。こうしたなかでイギリスの数学者アラン・チューリング(Alan Mathison Turing、1912~1954)とアメリカに亡命したハンガリー系のユダヤ人ジョン・フォン・ノイマン(Johnvon Neumann、1903~1957)がコンピュータの基礎を作り、現在の地球規模のインターネット世界が生まれているのだ。
 
フレーゲによって数学は現実的な現象から離れて抽象的に存在することと、抽象的なまま、複雑な思考を繰り返していままでにない論理世界を構築することが発見された。そして、コンピュータはこの論理世界を構築して操作することができる装置として考案されたのである。発見者たちもこの論理的な世界が我々の生きている世界と同じものであると考えていた感じもする。つまり、ここでの問題は論理を取り扱うコンピュータをどのように認識するか、である。デカルト主義への懐疑が哲学者たちの間で深く広がっていた時代に、抽象的な世界の完全性を感じさせる理論が登場してそれが急速に展開した。論理的な世界が現実の世界を離れて存在することができるという点がコンピュータの特徴だ。幾何学的な存在とは別に存在する論理的な世界を操作する。哲学はその仕組みを探ろうとする分析哲学と、論理的世界には結びつけることができない日常世界の仕組みを理解しようとする現象学とに分かれていくのである。(続く)



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