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徳認識論と深層学習

徳認識論と深層学習 その1

ここ一年ちょっと、深層学習のモデル、つまりLeNet、Alpah Go, Word2Vec, Bert, GPT-3とか勉強してきた。最近はtransformerまでのぞいている。その都度FBにあげて、詳しい教え子や知り合いからコメントをもらってそれを励みに勉強してきた。こうしたモデルとベイズをくみあわせたベイズ深層学習に僕がCEOを務める株式会社agbeeでの自律走行ロボットagbeeの開発はまとまってきている。さて、徳認識論という領域が浮かび上がってきたのは、こうしたモデルにたいする信頼性やこれをつかう正当化をどうするか、という問題に向き合ったときである。まあ、世の中にあふれる深層学習と哲学の本のほとんどは、このモデルへの恐怖か絶賛で、両方とも人間の知性を越える、というところが一致している。また俗受けするのでこの手の話はメディアでもネットでもあふれている。

だが、30年ほどいや40年ほどを振り返ってみると、40年前は古典統計の推論、statistical inferenceと僕のような解釈学的な「推論」は相容れないものだった。前者は仮説検証型で「科学」とされ、後者は一人称的現象学的記述であった学問だが「科学」ではないとされてきた。当時はかなり反発した考えだが、社会学・心理学ではSPSSやSASなど統計処理パッケージがミニコンで普及したこともあり、こうした仮説検定の信頼性を検証する理論がかなり発達した。因果関係と「相関関係」はことなるが、相関関係から仮説を検証しても良い、という流れが理論的に精緻化されて、しっかりと展開すれば相関関係から意味のある「因果関係」は探し出すことが出来るとされた。これはこれでかなり説得力のある議論で、パソコンでSPSSやもっと進んだアプリがつかえるようになると、この分野は様々に展開した。ある意味、アプリオリにモデルの信頼性が保証されている、といってもいい。アメリカで統計学の分厚い教科書をなにかの授業で読んだときに, statistical inferenceという言葉を始めて見て、哲学でのinferenceになじんでいた僕としてはstatistical という形容詞にしびれたね。魔法の言葉のようだった。ミニコンでSPSSをうごかしてたたき出される推論、というイメージだ。

だが、深層学習のモデルをつかっていても、このしびれるようなイメージはない。それはデータを処理するモデルはその結果の現実的な問題処理(将棋に勝つとか)で評価されているだけのように見えるからだ。推論の信頼性は個別のモデルに帰属する。なので、深層学習の本はモデルをブランド化して、その使い方つまりHow toを説明するだけになる。いくつかそうした本を僕自身でPythonをつかってプログラムを書いてそれに指定された「ライブラリー」を組み込みデータを処理する、という練習をやってきたが、それは個別のモデルの信頼であって、社会調査に使われる統計モデルのアルゴリズムではアプリオリに評価する方法がある、ということと大分違う。これをもって「だから深層モデルはまだ未熟である」みたいな知ったようなことを述べる哲学者やコンピュータサイエンティストがうまれる。一方で、手放しで新しいコンピュータの社会のビジョンをかたるあやしげな「科学者」も跋扈する。両方おかしい。

というのは、個別モデルに信頼性がうまれている、という現象は個別モデルの正当化概念とあわせて、実は哲学で処理が出来る、というか哲学で処理しなくてはいけない問題なのである。正当化の根拠を認識する主体自体がもつ性質や性格として考えるという分野がある。これを徳認識論 virtue epistemologyと呼び、この認識論は、いまの議論で言えば、深層学習モデルの正当化の根拠を、『統計学を哲学する』の著者の大塚淳さんの言葉を借りるなら「認識する主体自体が持つ性質や性格、すなわち認識的徳(epistemic virtue)に求める」からだ。(167p)では徳認識論とはなにか?それを次に説明したい。

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