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緩むということ

身体の硬さには定評がある大久保です。最近としては大きな気づきでしたので、写真があった方が伝わるかと思い、先週飲み屋ではっちゃけた恥ずかしい写真と共にあげます。
備忘録です。

4月から週一ヨガを復活させました。ヨガするとそこそこ気持ち良くてまぁまぁ満足して続けてましたけど、身体は一向に柔らかくなりませんでした。特に股関節w
で、頑張ろうとすればするほど出来なくて心が折れました。それが突如とある「気づき」を得た瞬間に一夜にして立位体前屈がマイナス10センチからプラス30になるほど身体がゆるみました。緩ませようとするのをやめたら緩みました。

これはもともと出来ちゃう人、なんで出来ないの?っていう人には分からない感覚で、出来ないからこそ得た学びでした。劣等感というとネガティブですけど、できないと思い込んでいたからこその気付きでした。でも、スポコン的なやれば何でもできるという話をしたいのでもないです。
適切なアプローチこそが大事でした。

これは僕の中では乗馬でもセグウェイでもヨガでもヒーリングでも同じなのだという気づきでした。

馬に乗る時、人をセグウェイに乗せるときにやっていたことを自分の身体に対してはやってなかっただけなのでした。これをした瞬間、身体は劇的に変化したのです。

馬に乗るときには心がけていることは、馬の反応に合わせてちょっとずつ距離を縮める。出来うるかぎり優しく触れて、馬が受け入れてくれて少し緩んだら、もう少し触れてみる。それで、もう少し仲良くしてくれそうなオーラが出たら馬装して、乗ってみる。乗ってからもゆっくりお尻で会話しながら、無理矢理蹴ったり鞭打つみたいな力任せじゃなくて、きめ細かくノンバーバルで対話していって、合図と反応に折り合いつけながらゆっくり波長をあわせていく。そうすると馬が気持ちよく歩きだし、歩幅が広がり、行けって念じるだけで、馬みずから気持ちよく走ってくれる。そうすると乗ってて最高に気持ちいいみたいなことです。これは馬ではある程度出来てました。みじゅくながらも。
セグウェイを人に乗せる時も同じで、相手の理解と受容度とかに合わせて段階を経て教えていくことを心がけていて、そうすると相手は知らず知らずにセグウェイに乗れるようになりましした。要は馬と同じ感じなのでした。
ヒーリングも然りで良くしてあげたい、治してあげたいと鼻息荒くするのはというのはエゴでもあるのです(愛とは難しいですね)。

しかし、、、こうしたことが自分の身体には出来ていなかったのでした。自分の身体なのでつい酷使していたのだと今回気づきまして、馬や他者と対話するように筋肉ひとつひとつ、細胞一つ一つをイメージして優しく労るように対話しながら扱ったら、身体がゆるんだ、柔らかくできるようになったのでした。

馬や他者は自分の鏡だと言いながら、自分の身体について何も出来ていなかった自分に愕然としました。つまりはそれは多分馬や他者にも出来ていなかったのかもしれない。結局鏡だから。自分に厳しいと人にも結局厳しいという話。自分を労れなくては他者も労れないという話ですけど、この気づきは本当に嬉しい気付きでした。分かったふりして何にも分かってませんでした笑

繰り返しますけど、劣等感とか自己否定とかは気づきの機会です。できちゃう人には訪れないやつです。だから、凡人に生まれた我々は幸せなのです。気づけるから。学べるから。

で、で、で、

そして、そうすると、次の問いは、

じゃあこれを、自分の身体にできたことを、今度は自分の心にどうしたらできるのか? 

こわばった心、不安定な心、どうしたら心を緩ませられるか? もとい心が緩むか?
それとも身体一如で、身体が緩んだら自然と心も緩むのかな?
ありのままで〜ありのままで〜って歌うことはできても本当にあるがままの心でいるためには、どうしたらいいの?という問いです。
言うは易すし行うは難しなやつ。

だから、まだ分からん…のですけど、

今のところの仮説としては、日々自分の心(感情)の動きに気づくということから始めるのだと思います。あ、今怒っている、あ、今悲しい、あ、今喜んでるとか、あ今恥ずかしい、あ今自分に嘘ついたとか、あ今無理してるとか、あこれは感情じゃなくて理性だ、あ今不安や恐怖から行動してるとか、あ無理にワクワクしようとしている、とかそんなことに気づいて、あ、そうかもねも大丈夫と受け入れることから始めるのだと思います。

頭は嘘つくけど、身体と心は正直なので、向き合うと自然と緩む、つまり、本来の動きをするのだと。良心が発動するのだと。道徳的な強制されなくても。

だから、日々の生活の中できめ細かく自分の身体と心と対話をしていくこと諦めずに継続すること、日々五感を研ぎ澄まして、外的世界と内的世界に対して、聞き視て触わり、嗅ぐこと。自分の感覚を信じること。賞味期限とかよりも笑 そうすると感覚統合が発動して、その先には、理解してるはずなのに腑に落ちていなかった感覚、つまり「今ここ」とか「中今」とか天才じゃなくても入れるゾーンとか悟りとか色即是空空即是色とか観自在菩薩業人般若孕たか言われる状態に入れるはずだと。気付きました。

で繰り返しますけど、ここには最初からそこにたどりつける人にはわからない喜びがあるのです。

清原選手にはいとも容易く何本も打てるホームランが凡人にはたった一本でもジョイに溢れるのです。ジョイフル。ジョイフル。

とは言え、たとえ、たどり着けなくても、ホームラン一本も打てなくても、ワクワクしたり楽しいと思ったときには何かしら気づいているはずなので、何年後かにそうだったのかなと気づくから、まぁ、つまるところ今のところは何でもいいのです。

何にも無くてもいいし、何でもありでもいいのです。

ま、いいか って 思えたらそれでいいのです。ま、いいか、って我々凡人にはなかなか思えないですけどね。
でも、それでも、ま、いいんです。

ま、いいかと、言えたらいいんです。言霊です。

幸せも然りです。幸せになろうと思って何がしの能力磨いてもいいし、磨かなくてもいいし。
でも、社会で成功する能力と幸せになる能力は別物なので、社会で成功する能力はたまたま人によって違うけれど、幸せになる才能は誰しもあるのです。別物ですから。教科書とか参考書たくさん読んでもだめなのです。ハウツー大好きです僕たち。
でも、そこじゃないと気づけたら、その意味では皆平等なのです。幸せである話です。

ということで、どこまでいつまでも書けますけど、言葉にすると、相変わらず堂々巡りな思考になるので、この辺でやめます。

ということで、身も蓋もない話でした♪♪♪

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