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その夜の戸山ハイツ②

 「腰巻お仙」の戸山ハイツでの公演は、この時だけにとどまらなかった。それから半年後、状況劇場は再びこの地に戻ってきた。
 昭和41年10月28日、29日、30日、と、3日連続で行われた「腰巻お仙 忘却篇」がそれであり、今となっては伝説となった公演である。「口笛の歌が聴こえる」では、あくまでも小説ということなのか、この2回の公演の様子があえて1回にまとめられており、少々、史実がつかみにくい。小説中の描写は、プールの部分を除けば、ほとんどは2回目の公演を描いたものであるとも思われる。

 さて、2回めの公演、同じく、「灰かぐら劇場」と銘打ってはいたが、今回は、プールではなく、箱根山の反対側の麓に残っていた野外音楽堂が舞台であった。野外音楽堂といっても、プール同様、あくまでも跡地、いや廃墟であって、陸軍の軍楽隊が使用していたものであった。音楽堂は今でも残っており、木々に覆われた激しい起伏の中に開けた場所に、まるで古代ギリシャの遺跡のように佇んでいる。アリストテレスやプラトンがここで説教を行っていたとしても不思議ではない。「忘却篇」の芝居は、この音楽堂を中心に展開されたのである。
 唐は書いている。

 「灰かぐら劇場といっても、それは、戦前の音楽堂であったらしく、今は屋根も壁もない、コンクリートの素の舞台だけ、そのうしろには、公衆便所、前には、すすきヶ原といった具合で、東京には、めったにない隠れた広場であった。」
               (唐十郎「腰巻お仙」現代思潮社 1968)

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 芳賀善次郎によれば、この音楽堂は、

 「昭和十八年三月にできたもので、底部にはステージと壁面があった。しかし戦後荒廃し自治会で修理したが、
また破損したので三十五年ごろ取り除かれた。
 戦前はここで演奏練習をしたり、外国武官の訪問があると箱根山に案内して説明したが、その時ここから低く音楽を流したりした所である。」
 音楽堂の背後は戦前うっそうとした林だったので、楽音がその林に逃げて、音楽効果はよくなかったという。」
             (芳賀善次郎「新宿の散歩道」三交社 1973)

 明治から戦中にかけて、広大な陸軍用地であったこの土地には、陸軍戸山学校が開校され、各種の教習施設が作られた。その中で、軍楽隊も育成されており、團伊玖磨、斎藤高順、芥川也寸志などの、のちの高名な作曲家も所属していたというから、彼らがこの音楽堂で演奏をしていたということだろう。
 それにしても、プール跡といい、音楽堂跡といい、戸山ハイツには、往時を偲ぶ廃墟があまた残っており、まさに、時間軸の狂ったような空間であったことだろう。この時は、「青かん劇場」らしく見せかけるために、音楽堂の周囲に120枚のムシロを張り巡らせ、その中で公演は行われた。のちの「紅テント」の萌芽でもあった。

 さて、この時の公演のポスターは、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったイラストレーター横尾忠則が手がけた。そして、このポスターは、その後、ニューヨーク現代美術館の
その横尾忠則によれば、10月の「腰巻お仙」の客席には、多くの曲者たちが集まっていた。澁澤龍彦はもちろん、細江英公、加藤郁乎、松山俊太郎、高橋睦郎、金子國義、矢川澄子、寺山修司など、錚々たる顔ぶれが揃っていたが、ただ、彼らを含めても、観客の数は2、30人程度だったという。
              (「唐十郎全作品集 第一巻 月報」1980)

 実際、記録によれば、3日間通しても70人ほどの動員でしかなかったとされている。
 
 観客席にいた澁澤龍彦が書いている。

「それで又しても思い出すのだが、あの寒風吹きすさぶ野外の戸山ハイツで『腰巻お仙』を見た時も、これは寒くてかなわないと予想したので、私は用意周到に、剣菱の一升瓶と紙コップを持って行った。」(「盲導犬」解説)
 
 寺山修司は次のように書いている。

 「たとえば前回作は『腰巻お仙 忘却篇』という怪奇メロドラマであったが、戸山ハイツまで観に行くと、暗闇に頭巾をかむって提灯を持って立っている。
 提灯には血でもはねとんだような筆書で『腰巻お仙』と書いてある。案内されて戸山ハイツの廃墟に入ってゆくと、崖の下にすでに先来の客が四、五十人ほど半信半疑で、不安そうに立っている。照明装置も何もないところで、いつとはなしに芝居が始まる。」
          (寺山修司「負け犬の栄光」角川春樹事務所 1999)

 芝居が進むにつれ、警察が現れた。
 怪しいアングラ芝居に反応した戸山ハイツの住民が、通報したのだという。

 「パトカーは、ライトで、戸山ハイツのプール一帯を照らし出してから、
 『近所の人が迷惑しています。ただちにこの不法集会は解散しなさーい』
 と放送した。
 唐十郎は、いまいましそうにパトカーと対峙していたが、やがて、役者を丘の上に集めると、
 『シュプレヒコール!』
 と大声をあげた。観客は、あっけにとられていた。唐は、一人で、パトカー三台へむかい、
 『バカヤロー、オマワリー』
 と怒鳴った。すると、劇団員も、
 『バカヤロー、オマワリー』
 と声をあわせた。つぎの言葉が出てこない。唐十郎は、失語症の気があった。
 『エート、エート、エート』
 と唐十郎が言うと、劇団員も観客も、
 『エート、エート、エート』
 と失語症になった。
 『オマワリはー、はやく、家へ帰って、カーちゃんの、大陰唇、おがめー』
 唐は、これだけ言うのがせいいっぱいだった。すると、劇団員もあわせて、
 『オマワリはー、はやく、家へ帰って、カーちゃんの、大陰唇、おがめー』
 と言い、それにつづいて、観客も、同じセリフを大声であげ、あげつつ退散するのだった。
                (「口笛の歌が聴こえる」)

 横尾忠則によれば、この警官への暴言は、警察へ通報した住民に対しても吐かれたとし、「これは生半可な思想で固められた演劇人の口からは絶対飛び出さない言葉で、この辺に唐十郎の河原乞食としての行動哲学が裏付けられているのである。」と書いている。
              (横尾忠則「昭和元禄」 「唐十郎
  
 ちなみに、記録によれば、この時の暴言は、実際には、「かかあと○○○○して寝ろ!」だったという。

 唐十郎が戸山ハイツを選んだのは成功だった。穴あり、山あり、森あり、陸軍の遺跡あり、という空間を自由自在に移動し、屋内の舞台では到底作ることのできない効果を生み出したのである。さらには、同じ空間に地域の住民が普通に生活をしており、当然ながら、通報され、警察が出動して大混乱となった。まさに、箱根山の一帯と、人々の生活とその乱れ、そのすべてを演劇空間と変えてしまったのである。

 「母ちゃんと〇〇〇〇して寝ろ!」などと歌ったのも、下品で紋切り型の捨て台詞というよりも、まさに、唐十郎たちが、戸山ハイツの生活空間の中に土足で入り込んだその証左なのだとも言えるだろう。

 そして、

「赤テントにつめかける観客の側にも反権力的なエネルギーへの熱い共感があり、舞台と客席はいわば親密に共振する関係にあった。」(「日本の現代演劇」岩波新書 1995)

 と、扇田昭彦は書いている。

 さらには、この空間に、澁澤龍彦や、土方巽や、寺山修司などを集めてしまったことも大事な点だ。土方巽の稽古場に集まっていた、時代の奇人や天才たちをそのまま戸山ハイツに連れてきてしまった、ということかもしれない。「口笛の歌が聴こえる」そのものが、まるでゴジラ映画の「怪獣総進撃」のようなものだが、その総進撃が、この戸山ハイツという磁場に集約されたのである。

 ちなみに、東京オリンピック前後のこの時代、芸術を街に解き放ったのは、状況劇場だけではない。まさに「書を捨てよ、町に出よう」という時代でもあったのだ。
 唐らとも交流のあった高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之、の3人の名字から命名された活動ユニット、ハイレッドセンターも、街頭に飛び出しては謎のパフォーマンスを繰り返し、世の中をかく乱した。いわゆる「東京ミキサー計画」と呼ばれる活動である。これらの活動の原点には、平岡正明らが起こした「犯罪者同盟」があり、彼らは一様に、犯罪が芸術に、芸術が犯罪に転化するという瀬戸際で表現活動を試みていた。

 横尾忠則は、「失われた新宿」というインタビューの中でこんなことを言っている。

 「客が車座になって酒を飲んでいると、芝居をやっている役者はこっちを向いて怒っているわけです。『お前ら何しにきているんだ!』と。でも、全員無視して芝居を観ている人は一人もいない。本当に演劇が好きというより、そういう場が好きだったんだね。そういう場から演劇ではない演劇が、ゴーレムが立ち上がってくるように、ガーッと何かが立ち上がってくる。そういう演劇性というのか、現実が演劇に、演劇が現実に変わっていくダイナミックな空間が好きだった。『腰巻お仙』は、途中で警察が来て大騒動になったから、あれを観た人は正確には一人もいませんね。テント芝居にも行ったけれど、知り合いがいたらずっと話していて、舞台なんか観ていない。」
 (「あゝ新宿 スペクタクルとしての都市」早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 2016)

 横尾の指摘は、唐十郎の狙いを見事に捉えている。
 ここでの芝居は、純粋な観劇、つまりは、台詞ひとつひとつや、役者の一挙手一投足を見守ることではなく、それらを含めた、この特別な空間に身を置くこと、巻き込まれていくこと、ひいては自ら参加すること、が目的であるということだ。そして、その磁場を作り上げたのが、他ならぬ、戸山ハイツであり、箱根山を中心とした異空間であった。

 大久保の母なる川、蟹川については、すでに書いた。現在の歌舞伎町、西武新宿駅付近を水源とする川が、歌舞伎町を蛇行し、大久保に流れ込んでいた。川は大きく深い窪地を形作り、それが、大きな窪、大久保という地名になったのである。川は、大久保を抜けて早稲田を進み、神田川に注いでいた。その後、大久保の流域は、尾張徳川家の敷地となり、川はせき止められて巨大な池となり、広大な庭園の景観を形作った。明治になって庭園は姿を消し、川はもとの流れを取り戻した。その後、陸軍の敷地になった後も、蟹川はこの地を流れ続けていたが、関東大震災を経て昭和を迎える頃から暗渠となり、やがて、完全にその痕跡も消えてしまった。
 つまり、現在の戸山ハイツ一帯は、もともと蟹側の流域であり、新宿区の真ん中にぽっかりと穴をあけた深淵のようなもので、その深淵の中に、人工の山である箱根山がそびえ、昼なお暗き密林があって、陸軍の遺跡が残り、さらには迷宮のような団地が広がっているという、起伏に富んだ異空間なのであり、唐が言うように、この空間なくして、「腰巻お仙」は成立しえなかったことだろう。
 
 面白いのは、またそのあとだ。
 唐十郎と状況劇場は、この伝説的な戸山ハイツ公演の後、新宿の花園神社にテントを張り、いわゆる「紅テントで」での公演が始まる。いわば、蟹川をさかのぼって、歌舞伎町にたどり着いたのである。実際、花園神社は、蟹川からほど近い場所にあって、内藤新宿の総鎮守であり、歌舞伎町もその昔は、蟹川の源流を中心に抱く巨大な沼地であった。

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 状況劇場と水との親和性は、これだけにとどまらない。
 「腰巻お仙」の3年後の1969年に、状況劇場は「新宿中央公園事件」を起こしている。
 唐十郎と状況劇場は、そのアナーキーな活動のため、拠点である新宿で広がっていた、官民一体の「浄化運動」の対象となり、花園神社を追放されてしまう。その逆襲として、唐十郎は、当時完成したばかりの新宿中央公園に赤テントを張り、ゲリラ公演を決行するのである。機動隊200人が出動し、テントを包囲されるという緊迫した騒乱状態の中で芝居は続けられたが、終演後、唐たちは都市公園法違反で逮捕されたのである。

「赤テントにつめかける観客の側にも反権力的なエネルギーへの熱い共感があり、舞台と客席はいわば親密に共振する関係にあった。」(「日本の現代演劇」岩波新書 1995)

 と、扇田昭彦は書いている。

 中央公園の敷地は、もともと、小西本店、のちの小西六であり、現在のコニカミノルタの工場があった場所だった。工場は、60年代に移転し、その跡地にできたのが中央公園だ。公園の西側の一角には今も十二社熊野神社があるが、かつては十二社池という広い池があり、滝まであるような敷地だった。熊野神社は、応永年間というから、14世紀、紀州の熊野から出てきてこの地を開墾した「中野長者」こと鈴木九郎が勧請したと言われている。池の周囲には、100軒を越える茶屋や料亭などが立ち並び、一大名勝地となっていたのである。池は少しずつ削られ、完全に埋め立てられたのが1968年だから、「新宿中央公園」の前年ということになる。
 さらには、中央公園の東側、現在は、都庁などの高層ビルが立ち並ぶ一帯は、明治の終わりに淀橋浄水場が作られた場所であった。その時に掘り返された土が新宿駅の向こう側の沼地に運ばれ、沼地は姿を消した。それが、その後の歌舞伎町である。淀橋浄水場は、昭和40年頃に閉場された。その後、この土地には、京王プラザを筆頭に、次々と高層ビルが建設されるわけであるが、昭和50年頃までは、何もない平地で、野球のグラウンドなどが何面も作られ、少年野球チームに入っていた私も、そこで何度か試合をしたものである。

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 繰り返すが、もともと、新宿、そして、歌舞伎町周辺は、水に縁の深い街である。唐十郎の芝居が、そのまま、水と関係があるということよりも、唐十郎ならではの嗅覚で、歌舞伎町を水源とする蟹川の猥雑なエネルギーの奔流を、大久保からさかのぼっていいった、ということではないだろうか。
 唐十郎は、その後も、新宿にこだわり続け、69年には、大島渚の映画「新宿泥棒日記」にも出演している。映画は、東口の駅前や紀伊国屋書店、そして、赤テントなどを舞台に、当時の新宿のアングラの生々しい空気をカメラに収めたもので、新宿文化の旗手であった紀伊国屋書店の田辺茂一も顔を出す。 また、蟹川のほとりでもある、かつての青線地帯であるゴールデン街では、夜な夜な、乱闘を繰り返していたという。喧嘩の相手は、寺山修司や野坂昭如など、錚々たる顔ぶれもいた。まさに、唐十郎は、戸山ハイツから、観客も時代のスターも一斉に引き連れて、蟹川の水脈の源である新宿そして歌舞伎町へと向かったのだ。そのすべてが、唐の演劇的パフォーマンスだったのだろう。
 
 いみじくも、唐は書いている。

 「演劇とは、終局的には、観客を創造するものであるならば、私の演劇的船出は、その戸山ハイツの夜から始まったのかもしれない。」(「腰巻お仙」現代思潮社 1968)

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