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蟹川のほとりで①

 「エジプトはナイルの賜物」という、あまりに有名な言葉がある。中学校の世界史の時間では、世界三大文明のひとつであるエジプト文明の豊饒さは、ナイル川がもたらしたものである、ということだと教わった。確かに、水と文明とは切り離せないものだろう。ところが、この言葉を残したヘロドトスは、実はそこまでは語っていないという。出典である「歴史」の中で、ヘロドトスはこう書いている。

 「というのは、いやしくも物の解る者ならば、たとえ予備知識を持たずとも一見すれば明らかなことであるが、今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物ともいうべきもので、エジプト人にとっては新しく獲得した土地なのである。」(ヘロドトス「歴史」岩波文庫 松平千秋訳)
 
 訳者の松平千秋によれば、「ギリシア人が通航している地域」というのはナイル下流の三角州、いわゆる「ナイル・デルタ」を指しているという。つまり、ヘロドトスは、ナイルの流れがナイル・デルタを形成したというその地理的な事実を語ったに過ぎない。しかも、この言葉はもともとヘロドトスのものではなく、ヘカタイオスが、エジプト史に関する書物で使ったものだという。
 ただ、そんなことはどうでもいい。ナル川は、度重なる氾濫のたびに支流を生み、その結果、広大で緑あふれる肥沃なナイル・デルタが作られた。結果的に、ナイル川がエジプト文明をももたらしたのは事実なのだ。
 アフリカ探検が全盛であった19世紀、人々の最大の関心は、ナイル川がどこから来ているのか、その水源はどこなのか、という謎だったという。実は、この問題については、古代エジプトの時代から綿々と議論と探検が繰り返され、ヘロドトスも、ナイルの源流を探る見聞録を残している。しかし、ナイルの水源の謎を作り出したのはプトレマイオスで、その著書「地理学」の中で、ナイルは中流でふたつに分かれるが、ひとつは青ナイル、そして、もうひとつが白ナイルで、これがさらにふたつに分かれ、それぞれ別の湖にさかのぼることができるのだと書いた。
 多くの探検家がナイルをさかのぼった。中でも、三十近い言語を習得したといわれる語学の天才リチャード・バートンは、「千夜一夜物語」の翻訳も行い、日本でも「バートン版」と呼ばれて親しまれているが、1858年、スピーク中尉とナイルの源流を発見するべく冒険に出た。バートンは途中で病に倒れ、スピーク中尉はひとりで広大な湖を発見し、これを、女王の名をとって「ビクトリア湖」と名づけた。ところが、バートンはその調査に満足せず、激しい批判を受けたスピーク中尉は自殺してしまう。
 1866年を皮切りに、宣教師デヴィッド・リヴィンストンは、数度にわたる遠征を行なったが、熱病と赤痢とに冒され、1873年にチタンボ村で亡くなっている。ヴィクトリア湖がナイルの源流であることを確認したのは、遠征先で消息不明となったリヴィングストンを探すべく冒険に出た若き新聞記者ヘンリー・モートン・スタンリーで、1875年のことであった。スタンリーは、この時の体験を「リビングストン発見記」として出版している。
 ただ、ナイルの源流の探求は21世紀となった現在でも続けられており、新たな発見が報告されているというから驚かされる。


 かつて歌舞伎町一帯は広大な湿地帯であり、窪地であった。そこかしこに湧水が顔を出し、大きな池を形作った。明治になって、池は、長崎の大村藩主大村子爵の屋敷の一部となった。深い緑に覆われた屋敷は、「大村の山」と呼ばれ、池の畔には、水との関わりが深い弁財天が祀られた。この弁天様は、今でも歌舞伎町の一角に残っている。そして、池には鴨が集い、鴨場、つまり、鴨の漁地として知られていたという。
 紀伊国屋書店を開業した田辺茂一は、明治38年に新宿で生まれているが、「大村の山」について書いている。

 「この大村の山は、現在の歌舞伎町一帯だが、そのころは、鬱蒼とした大木が茂っていて、山鳥や山犬がいた。 
 山の真ん中に池があり、その池のまた真ん中に島があり、小さな舟が舫っていた。」
                  (「わが町・新宿」旺文社 1981)

 東京で湧水などというと、どこか場違いな感じもするが、実は、西側に武蔵野台地を抱く東京は地形学的にも湧水に恵まれた都市である。新宿区内に限っても、新宿御苑、おとめ山公園、甘泉園、など、おびただしい湧水が存在した。今では多くの湧水が枯渇してしまっ
たが、おとめ山公園には今でも自然の湧水が残っている。東京の地形学の古典ともいうべき「東京の自然史」の中で、貝塚爽平は書いている。

 「今日ではこれらの谷底低地の川は下水を集めているが、もともとは、台地のすそから湧き出る地下水によって養われており、その水は谷底低地の下流部でしばしば、湿地や池をなしていた。(中略)もともと、山手大地をきざむ谷底低地は湧水があって、小さい集落を養うぐらいの水には困らないところである。」     (「東京の自然史」講談社学術文庫 2011)

 さて、この池を水源として、一筋の川が流れ出していた。名前を「蟹川」という。、明治10年代の「武蔵国豊島郡東大久保村地引絵図」を見ると、蟹川はちょうど「鉄道敷地」と名づけられた部分まで伸びている。「鉄道敷地」というのは、日本鉄道、つまり、つまりその後の山手線の線路やその付属地のことだろう。
 もっとも、この蟹川の水源についてはナイル川同様諸説あって、歌舞伎町のさらに西側、今で言えば、西武新宿駅を越えたあたりがそうではないか、という話もある。実際に、明治44年の市街図を見ると、川の流れは、新宿駅を出た山手線の線路と中央線の線路がV字に分かれたその間まで続いていることが確認できる。さらに、明治30年代に作成された「東京府豊多摩郡淀橋町大字角筈地籍図」では、川筋はさらにその上流を伸ばし、現在の大ガードの向こう、青梅街道の起点である新都心歩道橋のあたりにまで達していることが確認できるのだ。大ガードの付近は、今でも、大きな窪地を形作っており、かつては「雷が窪」と呼ばれていた。

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 もっとも、町中を流れる小さな川の水源というものは、時代によって変わってしまうものらしい。新宿御苑を水源とする渋谷川の歴史を追った田原光泰は書いている。

 「御苑の水源付近の様子が変わってゆくのは、ここが大名の屋敷地であったこと、さらに明治以降も、水源を生かす形で周辺敷地が使用され続けていったことと無関係ではない。」                   (『春の小川』はなぜ消えたか」之潮 2011)

 新宿御苑は、もともと信濃高遠藩内藤家の下屋敷であったが、明治に入って宮内庁が買い上げ、「新宿御苑」として一般公開されるようになった。その規模はだいぶ異なるが、大村子爵の屋敷と同じく、ここも鴨場として知られた庭園であった。内藤家については、またのちに触れることとしたい。

 湿地帯であった歌舞伎町には、他にもいくつかの池が存在しており、それらの水をも取り込んで、一筋の川と形を変えた水の流れは、蟹川として、歌舞伎町を横切っていく。川が消えてしまった今でも、その流れの痕跡を追うことは難しくない。
 街を歩いていると、時々、不自然に蛇行した小路などを発見することがあるが、かつてその界隈を流れていた川の痕跡であることが多い。さらには、その道筋が、周囲から目に見えて低い位置に続いていれば、かなりの確率で、そこには川が存在していたことになるだろう。水は、高いところから低いところへ流れるという絶対的な法則があるから、当然、川の流れは、低い場所、低い場所、へと流れていくことになる。他にも、川の記憶を伝える目印があるのだが、それはまたおいおい触れることにする。
 蟹川の流れは、歌舞伎町をなだらかに蛇行し、東へ向かう。都立大久保病院の敷地と、今のTOHOシネマズ、つまり元コマ劇場の間の道である。TOHOシネマズは、そのビルの頂上からゴジラが顔を出していることで知られるが、蟹川は、このゴジラの背後を流れていたことになる。歌舞伎町交番を横目に見ながら、道は右に左になだらかな迂回を繰り返す。蟹川のゆるやかな流れは、今でもその面影を残しているのだ。蟹川は、その後、「四季の道」と合流する。この遊歩道は、花園神社の裏手に形成された新宿ゴールデン街に寄り添うように伸びているが、ここには、昭和45年まで都電が走っていた。11、12、13、という3つの系統がそれで、当時は、「四谷三光町」と呼ばれていた新宿区役所のあたりの停留所から、引き込み線で現在の「四季の道」へと折れていたのだ。ただし、13系統以外は、その先、東大久保に存在していた大久保車庫へと戻るための専用軌道、つまりは、自動車の乗り入れができない道路であった。13番線の本線は、少し先、明治通りから折れてこの路線を走り、大久保車庫を越えて東側へと続いていた。
 ゴールデン街といえば、かつては、新宿の青線地帯として名をはせていたわけだが、都電の車両は、この青線地帯をかすめながら、路地のような狭い線路を走っていたということだ。
 昭和30年に生まれ、代々木で育った山口雅人は、鉄道に関する著作や写真を多く発表しているが、小学3年生の時に都電のこの路線に入り込んだ体験を書いている。

 「通りを渡り、その場所へと行くと、終点方面から延びる線路のカーブの先は、建物と建物の間を通っている。この道は人や自転車はまばらに通るが、自動車の行き交いがない、なんとも不思議なところである。当時は専用軌道という言葉さえ知らなかったし、初めて目にする光景であった。」
 そして、山口少年は、その奥の禁断の場所へと歩を進めるのである。
 「そう、ここは新宿ゴールデン街にあたる場所である。木造やモルタル作りの飲食店、小さな飲み屋やバーが立ち並び、ビルに取り付けられた看板やネオンは、当時の言葉で語れば、トルコ風呂やおさわりキャバレー、連れ込み旅館やホテルが目に付く。また、壁や電柱には映画の宣伝をはじめ、個室ヌードやストリップ劇場、そして真新しい日の丸が付いた赤尾敏のポスターが、電柱という電柱に同じ高さでズラリ貼られていたのが印象に残る通りであった。都電はこの通りのなかを直進し、明治通り方面へと向かっている。この辺は、子供ながらにもスケベ地帯で、ヤクザやチンピラのお兄さん、そして怪しいお姉さんたちがいる場所だとわかった。」
  (「懐かしい風景で振り返る 東京都電」イカロス出版 2005)

 都電の線路は、そのまま明治通りを抜けて大久保車庫に続いていたわけだが、山口少年にとっては、まさに、「行ってはいけない場所の先にあった大久保車庫」(前掲書)ということになる。大久保車庫は、大正15年に開設され、昭和45年、都電の廃線と共にその役目を終えて廃止となった。

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 さて、電車道は、青線地帯を抜け、区役所通りと明治通りのちょうど真ん中あたりで、蟹川の流れに合流する。線路は、もともと蟹川の流れに沿って作られていたのである。
 蟹川は、青線の香りを吸収したあと、そのまま区役所通りを横切り、さらに明治通りへと向かう。この一帯は、昭和7年まで、「新田裏」と呼ばれた田園地帯であり、蟹川の流域に沿って田圃が拡がっていた。
 大正6年に大久保で生まれた細田常治氏は、新宿歴史博物館のインタビューの中で、このあたりの市電の風景について次のように語っている。

 「はい、家から最寄りの新田裏停留所からあちこちと行きました。省線電車には遠出するときに新宿や新大久保へ出て乗りましたが、市内へ行くには市電の方が便利でしたからね。停留所は、市電の軌道跡を利用した現在の四季の道の明治通り寄りの入口のあたりにありました。この道の北側に暗渠になっている川があり、雨が降るとよく溢れました。」
  (「大正・昭和戦前の暮らし」新宿区立新宿歴史博物館研究紀要第4号所収 1998)

 明治期に、もともと蟹川の流れに沿って作られた市電であったが、時代が昭和へと移る頃には、川はすでに暗渠となっていた。ところが、川を蓋で閉じただけの簡易な暗渠は、当然のことながら、ちょっとした雨でも路上に溢れてしまったのである。

 小説家の加賀乙彦は、昭和4年に生まれ、西大久保で育っている。正確に言うと、明治通りと、暗渠となった蟹川跡に敷かれた都電の線路とが交わるところ、つまり新田裏停留所から、明治通りをわずかに北上したあたりである。自伝的小説「永遠の都」には、昭和の初めの、この界隈の風景の移り変わりが描かれている。

 「初江がこの西大久保一丁目の小暮家に嫁いできたとき、あたりにはまだ田園の名残りがあって、植木屋の樹木や庭石、仕舞屋の隣に畑地があり、それにとくに雨の日は道がぬかって高足駄の歯に土くれがこびりつき難儀して、生まれ育った三田綱町にくらべると大変な田舎に来たと嘆いたものだった。それが、植木屋を立ち退かせ畑を潰して工事が始まり、いつのまにか並木や歩道をそなえた”改正道路”が家のまん前を通り、家の敷地も大分削られ、低い路面まで石段で通うことになった。改正道路は池袋、新宿、渋谷を結ぶとあって、、東京市の”青バス”の路線となり円タクも繁々と来て、足の便がぐんとよくなった。道路沿いに家々が新築された。多く板塀や竹垣に囲まれ、小さな庭と洋風応接間をしつらえた”文化住宅”で、明治時代、この地が豊多摩郡大久保村と言われた時代より建っている小暮のわが家は、古めかしさで目立つようになった。」
          (「永遠の都1 夏の浜辺」新潮文庫 1997)

 初江というのは、加賀乙彦その人自身だと思われる悠太の母親である。つまり、その初江が嫁いできた時、というのは、加賀乙彦が生まれた昭和4年より1年、あるいは2年前のことだろう。改正道路こと明治通りが新宿に開通したのが昭和5年のことだ。それまでの田園風景が姿を消し、新しい街並みに変わっていく様子が見て取れる。加賀の育った家の住居表示も、当時は西大久保村であったが、今では歌舞伎町二丁目と住居表示を変えている。
 加賀は、当時の新田裏あたりの風景についても書いている。

 「改正道路を新宿角筈から来た市電が横切っている。新田裏の停留所は降りる人も少なく、いつも閑散としていた。」(「永遠の都3 小暗い森」新潮文庫 1997)

 加賀の実家のすぐお隣は四代目柳家小さんの家であり、近くには、昭和14年に内閣総理大臣となる平沼騏一郎邸があったという。

 明治通りを横切った蟹川は、今では「文化センター通り」と呼ばれている道に入る。現在の住所こそ新宿6丁目であるが、昭和53年の住居表示実施までは東大久保であった。通りの名前になっている「新宿文化センター」は、かつての大久保車庫の跡地に作られたものだ。

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 このあたりで、蟹川には、大きな出会いが待ちかまえていることとなる。歌舞伎町を水源とする流れを白ナイルとするならば、いわば青ナイルとも言うべき流れが北上してきて文化センターの付近で合流していたのだ。青ナイルの水源は、太宗寺の池である。靖国通りと新宿通りの合間、新宿御苑のすぐ近くにある太宗寺は、太宗という僧侶が建てた草庵を前身として、1668年に建立されたと言われ、長いこと、内藤家の菩提寺であった。内藤家といえば、もともとは徳川家の家臣であり、その広大な敷地の一部を幕府に返上して出来上がったのが、いわゆる「内藤新宿」と呼ばれる宿場町であり、これが、今の新宿の始まりであった。つまり、この太宗寺は、新宿の誕生の頃から、この町を見続けてきたということだ。特に、1814年に作られたという閻魔像は、「内藤新宿の閻魔さん」として、江戸庶民の信仰を集めてきたという。三田村鳶魚は書いている。

 「一番新宿の盛んであったのはやっぱり文化文政の頃であって、太宗寺の山開きといえば、江戸中に誰知らぬ者もなかった。あの名高い閻魔の賽日、正月と七月とに後園を開放する。それが山開きなのである。太宗寺の庭は今日(大正14年)でも、さすがに幽邃な趣きを残して昔のおもかげがしのばれるが、維新前は大きさも現在のようではなく、四境遠く市街を離れ、古木老樹の茂みに奥深く、泉石の苔滑らかな様子は、いかにも閑寂を極めたものであって、夏の暑さもここでは忘れてしまったという。」
         (三田村鳶魚「江戸生活事典」青蛙房 1962)

 また、境内に鎮座する267㎝の「銅造地蔵菩薩座像」について、漱石がこんなことを書いている。

 「路を隔てた真ん向うには大きな唐金の仏様があった。その仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。
 健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀じ上った。着物の襞へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉まったりして、後から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。(中略)
 葭簀の隙から覗くと、奥には石で囲んだ池が見えた。その池の上には藤棚が釣ってあった。水の上に差し出された両端を支える二本の棚柱は池の中に埋まっていた。周囲には躑躅が多かった。中には緋鯉の影があちこちと動いた。濁った水の底を幻影のように赤くするその魚を健三は是非捕りたいと思った。」(夏目漱石「道草」岩波文庫 1995)

 漱石は1867年、慶応3年に生まれたが、幼少期、明治4年頃から、太宗寺の裏手に住んでいたことがある。「道草」は漱石の自伝的小説であり、健三は漱石自身であると考えれば、この描写通りのやんちゃを実際に行ってきたのだろう。注目すべきは、太宗寺の庭にあった池の描写である。この池が、当時、小川となって北へとほぼまっすぐに伸びていた。池のあった場所は、今では、寺に隣接する新宿公園の敷地となっていて、池の表面はコンクリートで覆われてしまっているが、比較的最近までは池が残っていたようだ。
 昭和27年に新宿二丁目で生まれた平井玄は、漱石の時代に触れた後、こう書いている。

 「この時から九十年近く経った戦後、私の記憶にある一九五〇年代終わりでも、社務所裏の土手から垂れ下がる枝葉や藻に被われた水面は昼でも暗く、夜など幽霊でも出そうな沼地だった。戦後の少年たちもこの池で鮒やザリガニを捕って遊んだ。太宗寺公園と呼んでいたと思う。」(「愛と憎しみの新宿」ちくま新書 2010)

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 太宗寺の池を水源とする川は、そのまま北上し、東大久保村へと流れ込むと、歌舞伎町を東に横断してきた川と出合う。それが、現在の新宿文化センター付近である。
 つまり、蟹川には、大きな水源がふたつあった。ひとつは、その後、昭和に入って、日本最大の歓楽街となる歌舞伎町。そしてもうひとつは、江戸時代に新宿という宿場町を生んだ内藤家の菩提寺である太宗寺。このふたつの場所で生まれた水が、川となって、大久保に流れ込んでいたのである。ふたつの場所から生まれたふたつの川が合流し、大久保が生まれたのだ。
 川が流れているということは、そこに窪地が存在しているということである。蟹川の水源である歌舞伎町もかつては広大な窪地だったが、明治の中頃、新宿西口に淀橋浄水場が作られることとなり、その土地で掘り返された土が、歌舞伎町の窪地を埋め立ててしまった。今では、歌舞伎町が窪地であったことなど容易には想像できないだろう。
 川の流れが形作る窪地は、その流域に沿って、大久保へと続いていた。そう、実は、大久保は窪の町である。それもかなり大規模な窪地だ。ふたつの水源が重なって蟹川
は流域を広げ、窪地はさらに大きくなった。歌舞伎町の窪地はその姿を消してしまったが、
蟹川の流域である明治通りの東側には、大久保通りをはさんで南北に、今でも深く広大な谷がぽっかりと口を開けているのである。

 大久保、という地名の由来には諸説あって、「東京府豊多摩郡誌」には、次のような記述がある。

 「依て考察するに、當町の地古来富塚村の内なりしが太田新六郎寄子衆に大久保の姓氏を唱ふる者あり、當所の邊を領してより村名となりしものならんか、一説に大久保の地形凹字形なるを以って、大窪村と唱へ後今の字に改むと。」
 「地形概ね平衍なれども、町の東部大字東大久保の地は内藤新宿町、市内四谷区及び牛込区に連亘せる岡脈に接続して、東西に高阜相連い、大字西大久保境界邊より南北に低下して恰も凹字形を為す、是れ東大久保に阪路多き所以にして、大久保の地名亦た是より起れりりとも傳えらる。」(「東京府豊多摩郡誌」1916)

 太田新六郎というのは小田原北条氏の家臣であり、その寄子衆に大久保姓を持つ者がおり、この地を領していたのだという。また、この地に屋敷を持っていた百人組同心の総取締役が大久保姓であった、という説もある。大久保村という名前が記録に現れたのは、戦国期、あるいは江戸期初期であると言われるが、いずれにせよ、大久保姓を持つ人物が大久保村の起源に関わっているという史実はいくつかあったとしても、蟹川とその流域の谷という地理的な特徴が大窪という地名につながった、と考えた方がわかりやすいし、おそらく、正解に近いだろう。
 江戸に関する歴史研究で知られる鈴木理生はこう書いている。

 「古い地形図で武蔵野台地上の小字名をみると、『クボ』はいたるところに見出せる。漢字では久保・窪があてられているが『クボ』には、大久保・小久保・長久保などのように凹地の形状を形容するもの、荻窪のように草木の名をつけたもの、狐・蛇などの動物の名をつけたもの、粋なものでは恋が窪などというのさえある。このバラエティに富んだ『クボ』は、すべて谷筋そのものである。より具体的にいえば『クボ』は零細河川の氾濫の際の遊水地を意味する地名であった。」
              (「江戸の川・東京の川」井上書院 1990)

 いわゆる「スリバチ」という地形概念を提唱している皆川典久は、蟹川について、「グランド・スリバチ=大久保の母なる川」と表現している。(「東京『スリバチ」地形散歩2」洋泉社 2013)
 蟹川は大久保の母なる川であり、ヘロドトス風に言えば、大久保は蟹川の賜物なのである。そして、蟹川が暗渠となって地中に姿を消しても、歓楽街である歌舞伎町や、青線地帯の猥雑さと、内藤家の菩提寺であった太宗寺の清流とが、ひとつになって、大久保には流れ続けているのだ。

                              つづく



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