遺言

 遺言なぞ書きたくもないのだが、ただ着々と迫るそれに対して私が対抗する術を考えたならやはりこの手しか残されいないような気がしてならないのだ。
 先生の書くその字は達筆すぎて現代の人間の私にとってはどうも少し読むのに億劫な気持ちにさせられるのは気のせいだろうか。
 このような若さで一端の死を迎えるというのは未だ信じ難く思っているところではあるが、しかし、それと同時に着実に忍び寄る死の足音というのが聞こえてならないというのも事実で。そう考えると私は自分がいつ死ぬのかを知らないでいた方があるいはそれを老いと感じ、ただ普通に死ねたのかもしれない。また、こんなにも若く死ぬ運命にあったというのなら私の小さな頃の大病と一緒にあの世へ伴っていれば楽であったか、と考えてもそうではなさそうなのである。人生のいつに死のうともおそらく、その死の恐怖とやらは大きさを変えることなく必ずや人間の隣に鎮座し続けるだろう。そうなれば、より長くそしてより楽しい人生を送った人間こそ、そんな死に打ち勝つことができるのかもしれない。
 先程、小さな頃の大病の話をしたがおそらく、その時に死んでいたのだとしたら私の生きるはずだであった人生における失敗や後悔といった様々な負の感情が、私が死ぬと同時に残された家族に降りかかっていたであろう。その、負の感情とは非常に微細となって、人生へと少量づつ降りかかるのである。ただこれが死によって不完全燃焼を起こした際、その矛先が向けられるは残された家族である。そしてまた、微細すぎるが故非常なる驚異的な感染力を持ってして私の周囲の人間を負のどん底へ突き落としてしまうのである。これはある種の劇薬と言っても過言ではなかろう、これの感染を絶対的に防ぐ方法なぞはやはりないのであるが、どうやらその症状を軽減さすことはできるようなのである。これは誰であったか人伝に聞いた話であって少々、信憑性に疑いの余地がないとは言い切れんが、私はこれに私の短い人生を賭け試そうとしているのである。ただ私にその話をしてくれた本人はどうやらとても内気な性格のようであって、その人曰くこの考えはあまり他言せぬようにとのお達しであった。そのため、この方法についてはこれ以上の言及を控えさせていただきたい。