旅立ちの前に2-2(小説『天国へ届け、この歌を』より)
「香田さん、ありがとう」
力を振り絞って声を出したつもりなのに、かすれてしまって弱弱しく響いた。点滴に繋がられた腕は、あまりにも重くて動かせない。かろうじて指先だけが動いた。
「お大事になさってください」
事務的な言葉なのに、美月の態度が変わった。親に叱られた子供の様に、うなだれて小刻みに震えていた。
「歌を、あの歌を歌ってもらえませんか?もう一度」
声が、息に埋もれてしまってうまく出せない。人差し指がかろうじて上がった。美月に伝わったのだろうか。
美月が、私の目を見た。彼女の視線が、放射線のように私の身体に入り込んで行く。私は、美月の画像を焼き付けてしまいたいと思った。
「あの歌ですね」
美月は、目を閉じて、呼吸を整えた。急に周りの音が消えた。沈黙が続く。私も目を閉じた。
鈴の音が天井から降り注ぐように、美月は歌い始めた。
私は、美月の部屋にいる。美月はギターを手にして歌い始めた。視線を私だけに向けられている。澄んだ歌声は、私の心を清らかにする。心の奥にある灯の存在を知る。
キャンドルの明かりに、照らし出される美月の横顔。ミッキーマウスのグラスに入れられたスパークリングワインの泡の輝き。
朝の光にさらされた美月の流れるような黒髪。その隙間からのぞく白い肌。胸の谷間の隆起。
私の身体の中の細胞の一つ一つが蠢き始めた。
心の領域の及ばない身体の中枢から、負の試練に抗う存在がいたのだ。私の身体が、負の方向に向かうほどに、レジスタンスの結束が深まって来たのだった。
ついに彼らは手術という大決戦にお前に、その姿を現したのだ。
私は、目の前の美月に女を感じた。私は、男と言うより雄が頭をもたげてきたのである。私の意識にかかわらず、妻の美由紀が側にいるにも関わらず。
美月を抱きしめたい。身体の芯が熱くなっているのに、体を動かすことさえ出来ない。生きたいという気持ちが、このような形で現れるのは、自分でも意外だった。
美月の歌が、降り注ぐ。私の身体に吸い込まれてゆく。最後の戦いに臨むレジスタンスたちを鼓舞する。
生きたい。生きたい。もう一度、美月の作った料理を食べたい。
そして、この腕の中に美月を抱きしめたい。
だからずっと、このまま歌い続けて欲しい。
お願いだから、歌い続けてくれ。
お願いだから、ずっとずっと歌い続けてくれ。
サポート宜しくお願いします。