何を伝えたらいいの(小説『天国へ届け、この歌を』より)
「ひょっとして、松村美由紀さん?」
面会に来て、病室に入った途端に、年季の入った看護師さんが入って来て、旧姓で呼ばれた。
名札には、消化器外科 婦長 加藤由美子と書かれている。
「私、旧姓は湯浅。東山女子学園で一緒だった湯浅由美子よ。覚えていらっしゃる?」
すらりとして身長が高く、きりっとした顔立ちに見覚えがあった。もう何十年も経っているのにその面影は、残っていた。クラスは、一緒になったことがなかったが、勉強が良くできる子として、学年中でよく知られていた。
「あの湯浅さん。覚えています」
彼女は、懐かしそうな顔をしたが、すぐに婦長としての顔になった。裕司に向かって、
「貴島さん、少し奥様とお話をしたいことがありますので、お時間を頂いても結構ですか?」
「構いません。どうぞ」
こういう時、いつもの裕司なら優しい顔をして気の利いたことを言うのに、今日は言わない。寂しそうな顔をした。私はそれが気になった。
同じフロアーの面会室と書かれた個室に入る。
「以前、田中先生のところに来られているのを見て、ひょっとして、松村さんかなと思ったのだけど、中々声を掛ける機会がなくてすいませんでした」
「突然なことだったのでびっくりしています。まさか主人がこんなことになるなんて・・・。湯浅さんがいらっしゃって良かった。私どうしていいかわからなくて、誰も、相談できる人がいなくて、どうなるか不安で仕方なかったのです」
湯浅さんのきりっとした顔立ちと一分の隙のない制服姿の中で、眼鏡の奥の瞳だけが、愁いを帯びて優しく光っていた。
懐かしさと、誰かに甘えたくなる感情が一緒に出てきて、涙が溢れて出てきた。
「大変だと思いますけど、乗り越えていきましょう。困ったことがあったら、何でも言って来て下さい。担当の田中先生も、若いけどしっかりしているから、大丈夫ですよ」
「助かります。でも、あの先生に任せて、大丈夫?」
「松村さんだから、言うわ。実は、この前外科部長とやりあっていたのよ。ご主人のことで」
「主人のことで?」
「そう。個人の治療に関する事だから、あまり詳しくはお話しすることは出来ないけれども、田中先生は、何としても手術をしたいと言い張っているの。部長は化学療法だけで済ませようとしているのだけど、田中先生は手術をするって聞かないの。先生が研修医の時に、お父さんをご主人と同じ膵臓の病気で亡くしているの。研修医で、お父さんの手術で立ち会っていたのだけど、どうしようもなかったみたい。彼は、それをとても後悔しているの。だから、同じ症状のご主人を少しでも助けたいと思っているみたい。見かけは、頼りないけど芯はしっかりしている、いい先生よ」
「そうだったの」
私は唐突に、田中先生が熱心に火星人のお化けみたいな絵を描いている姿を思い出した。眼鏡の奥の真剣な目と何処かユーモラスな絵、その中に田中先生のメッセージが込められていた。
今初めてわかった。
「何かあったら、何でも相談してくださいね」
「ありがとうございます」
裕司のいる病室まで、随分距離が離れているように思った。
裕司に何を伝えたらいいの。
何を話せばいいの。
明るい照明と手入れの行き届いた廊下なのに、私は手探りで暗闇の中を歩いているような気がした。
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