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あの頃の笑顔(小説『天国へ届け、この歌を』より)

改札口は、北口と南口があって、どちらから降りてくるのか分からない。

吐き出されるように降りてくる乗客の中で、裕司を見つけられそうにない。

仕方ないので、先にスーパーマーケットで買物を済ませるようにした。

裕司の好きな魚の煮付けとごぼうのきんぴらとだし巻き卵。

レジで精算する時に、エコバッグを持ってくるのを忘れたのに気が付いた。

我ながら不覚。

土だらけのごぼうが、不格好に突き出ている。

こんなことなら、切ってあるのにしとけば良かった。

スーパーマーケットの効きすぎた冷房に体が慣れてしまったせいか、外に出るとむせかえるような熱気が襲った。

夕方とは言え、真夏の日差しは、日傘をすり抜けて来るみたいで、お肌が悲鳴を上げそう。

裕司の部屋まで、随分距離がある。

熱い。

レジ袋が重い。

こんなに沢山買い込まなければ良かった。

立ち止って、滲み出る額の汗をガーゼのハンカチで拭っていると、反対側の歩道を見覚えのあるライトブルーのジャケットが近づいて来る。

どんなに暑くても、必ず長袖のジャケットを着る裕司。

そう、あれは正しく裕司のジャケット。

女性と二人並んで歩いている。

アスファルトの照り返しによって、空気が陽炎のように揺らいでいて顔まではよく見えない。

楽しそうに会話をしているように見える。

若いカップルにしか見えない。

それにしても、こんな真夏に裕司と同じライトブルーのジャケットを着ている人がいるなんて。

私は、立ち止ったまま、そのカップルを通り過ごそうとした。

裕司。

あの頃の裕司。

はにかみを残した笑顔。

優しい目。

タイムスリップして今の私が、裕司と連れだって歩いている若い女性に乗り移ったような気がした。

懐かしい裕司の笑顔。

会いたかった。

「裕司」

思わず叫んでしまった
                                        つづく    

  

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