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短編小説『暗闇に向かって歌えない』

貴島さんと奥さんが、きんぴらごぼうとだし巻き卵を持って来て下さった翌週の月曜日。貴島さんは会社に来なかった。

思い切って、支社長室にお礼を言いに行こうとしたけど、お休みだった。次の日もお休み。

会えないと分かっている。でも、いつもの電車に乗る。いつもの車両、いつもの座席。

当然だけど、貴島さんは乗っていない。
いつも貴島さんが座っている席には、若いサラリーマンが座っていた。

嫌な予感がした。

貴島さんが、名古屋に帰って緊急入院していることを耳にした。

貴島さんが入院。あれ程元気にしていたのに。どうして?

すごく幸せだったのに。私が今までの私でなくて、新しい私になることが出来たのに。

貴島さんに、早く会いたい。急に会社に来なくなって、すごく心配。早く元気になって、戻って来て欲しい。

大阪と名古屋は、そんなに距離が離れていないのに、今はすごく離れているような気がする。

同じ会社、同じ駅、同じ電車の向かいの席。
貴島さんの存在を感じることで幸せになれた。その貴島さんが大阪にいない。

お気に入りのイヤリングの片方をなくしてしまったような気分。

貴島さんの奥さんが、持って来てもらった惣菜を入れたタッパーウェアーを返さなくちゃ。
「すごく美味しかった」とお礼を言いたい。
貴島さんの奥さんの優しい顔。思いやり。

複雑な気分。すごく複雑。私を変えてくれた。私だけの貴島さん。

その貴島さんが、奥さんの持っているレジ袋をさりげなく持った。それは私に対して、優しくさよならと言ったことなの。

嫉妬する貴島さんの奥さんに優しくしてもらったら、私の想いは、何処に向けたらいいの。私は、どうしたらいいの。何処に行けばいいの。

何もする気が起こらない。部屋を真っ暗にして、あの時のようにキャンドルに火を灯す。

テーブルの向かいに、貴島さんがいないだけで、これ程暗く感じてしまうものなのか。

キャンドルの明かりが、そこだけ闇に吸い込まれてしまっている。キャンドルの炎が発する香りだけが、あの時と同じなのが、寂しさを倍増させている。

ギターを取り出した。
あの時と同じようにあの歌を歌おうと思った。目の前に貴島さんがいた時のようにギターを鳴らした。

低音が闇に吸い込まれた。その音は、お父さんのギターを初めて、お父さん指を押さえるのを手伝ってもらって、引いた時と同じ。その低く響く音は、私の心にも重く深く染みわたって行った。

寂しい。
私は暗闇を前にして歌えない。
私は、ギターを抱えてひたすら泣いた。

寂しくて、辛くて、悲しい。
暗闇が怖い。

泣いた。

貴島さんに会いたい。



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