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短編小説『宴のしたく 後編』

香田さんの歌が終わった。終わると同時にレンジのスイッチを切った。
彼女は、何事もなかったように料理を続けている。

「香田さん、歌上手いね」

彼女は、その意味がよくわからないのか。きょとんとした顔をしている。

「いい歌だね。香田さんが作ったの?いい歌だね」

香田さんは、驚いたように、そして大きな間違いを指摘された時のように口元を両手で押さえた。

「ごめんなさい。私確かに歌っていましたよね?誰かに聞いてもらうために歌っているのではなくて、タイマー代わりに歌っています。さっきの歌なら1番が何分何秒って分かっているので時間を歌で計っています。その方が、私にとって、タイマーで計るより手っ取り早いのです。歌の練習にもなりますので」

「鼻歌を歌っている人は良くいるけど、本格的に料理を作りながら歌っている人は初めて見たよ」

「私、いい加減に歌を歌うことが出来ないのです。歌に対して失礼だと思うのです。だから鼻歌では歌いません。気になりますか?気になるなら止めておきますけれど」

「いやいや、気になるどころかむしろ歓迎だよ。歌を聴きながら料理を作ってもらうなんて最高の贅沢だよ。是非続けてください」

その言葉を聞くと、彼女はにっこり笑った。香田さんの目が零れた。瞳が星のように輝いた。

それを見たとたんに、閉ざされているものが開かれた。目の前に蝶が舞い踊るお花畑の中にいた。春、春、春、春がやってきた。鼻の奥がつんとして、駆けだしたいような感覚が戻ってきた。

香田さんは、またキッチンの方に向いて、歌い出した。

幾分私のことに気を使ったのだろう、先程とは違って声量を絞っていた。それでも、香田さんの清らかな声は部屋中に響き渡っていた。ずっとこのままでいたいと思った。

同時にこの感動は、一人ではもったいないと思った。妻の美由紀と一緒にこの感動を味わいたいなと思った。

そう言えば、今頃美由紀はどうしているのだろう。娘のカンナと二人きりで夕食を取っているのだろうか。何だか家族揃って家で食事をしたくなった。
家に帰りたくなった。

一度でいいから、カンナに食事を作ってもらって三人で食事をしてみたいなと思った。そう思うと、今こうやって過ごしているのは、自分では勿体ないくらいの幸せを感じる。

しかし、心の奥底に一点のわだかまりのようなものがある。

このわだかまりは、何なのだろう。

この幸せを素直に受け入れることを拒んでいる小さな黒い塊は何なのだろう。

私は、優雅に流れる大河の先に、急に現れる大きな滝があるような気がした。

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