あの感動はどこに行ってしまったのか
梯子を使って、夫人の寝室に忍び込む場面を、一行一行に心をときめかせて読んでいたのに、今読み返してみると、あの時の感動は、何処に行ってしまったのだろうかと思う。
感動どころか、さすがに妻にはそういうことはないだろうが、娘に対してそんなことをする奴が現れたとしたら、絶対に許されないと嫌悪の感情が湧く。
私は、暗闇の中を情熱にうなされて、夫人の寝室に忍び込もうと梯子を昇っている少年から、何も知らずに隣の部屋で、大いびきで寝ている主人に変わってしまっていた。
あの感動は、何処に行ってしまったのだろう。
これも歳のせいか。もうあの感動は、二度と得られないのかもしれない。
何処かで、見た顔?
どうして向かいの席に座っている若い女性は、涙を流しているのだろうか。娘のカンナと同じ年頃だろうか。
楽天的なカンナと違って、近頃の若い娘は情緒不安定な人が多いのであろう。
どうせ彼氏と別れ話でもしたのだろう。そうか季節外れの花粉症なのかもしれない。いずれにしろ、かかわるのは面倒だ。
若い頃なら、これくらいの若い娘が泣いているのを見ると興味を持ったのに、今は何も感じない。むしろ、かかわりたくない。
感動を無くしてしまったのだ。若い頃の自分が一番嫌っていた、小賢しい大人になってしまったのだ。
情けない。
もうあの頃の自分を取り戻すことは出来ないのであろうか。
空しい。
本を読むスピードにしても、若い頃の様にいかない。根気がなくなるし、すぐ目が疲れるから、その都度本から目を離さないといけない。
離したがいいが、また元の処に戻るのに苦労する。つくづく情けなくなる。
もう駅に着く。今日は、これくらいにしておこう。
本を閉じた。立ち上がろうとすると、目の前の泣いていた若い娘が、席を立ってこちらに向かって来ようとしていた。
口元が上がって、頬が盛り上がる。黒ぶちの眼鏡。ゆったりとした黒のワンピース。
確かに何処かで見たことがある。それも最近のような気がする。
「貴島支店長」
前の席に座って泣いている娘さんにいきなり声を掛けられた。どうして、私のことを知っているのだ。
「コーダです。今日、会社で・・・」
電車が停車して、ドアが開いた。他の降りる客に押し出されるようにホームに降りた。
彼女が、何か言ったようだが、ホールの雑踏と駅員の発車を告げるアナウンスとブザーの音でかき消された。
顔を近づけて、また何かを話そうとしたが、周りの音が収まらないので「少し待ちます」と言うのを笑顔で表した。
この一瞬の間が、彼女の奥ゆかしさと笑顔の美しさを同時に伝えた。眼鏡の奥の目が、春の陽を浴びて輝く水面のような光を放った。
きれいだ。
また、この間が悪戯を見つかった共犯者の様に顔を見合わせる二人の距離を縮めた。
「総務部の香田です」
あっ、そうだったのか。思い出した。
「スターダストレビューのチケットの手配をしてもらって、ありがとうございます」
私は、会社での仮面を脱ぎ捨てていたのだ。
彼女は向かいの席でずっと私を見ていたはず。
私は、毛を刈り取られた子羊のように、居場所のない恥ずかしさを感じた。
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