娘の気持ち2-1(小説『天国へ届け、この歌を』より)
玄関に手入れの行き届いた男物の靴が、きちんと揃えられて置いてある。久々に見るお父さんの靴。お父さんが帰ってきている。
「ただいま」
「カンナ、お帰りなさい。あなたの帰りが遅いので、先に食べているわよ。直ぐに支度をするから、カンナも一緒に食べましょう」
元気が戻っているお母さん。
最近ずっと元気がなくて落ち込んでいた。
お母さんの元気のない原因は、お父さんの病気だと知っている。
誰にも話したらだめよと言われている。かなり深刻な状態になっているらしい。
でも、目の前に以前のままのお父さんがいる。
想像していたのと全然違う。今まで通りのお父さん。むしろ、以前より元気になっているような気がする。
お父さんの中に、お父さん以外の別の存在があるような気がする。
「カンナ、お帰り。遅かったね。待っていたんだよ。早く一緒に食べよう」
「分かった。そうする」
目の前にいるのは、本当にお父さん?
私が想像しているのと全然違った。
私は、夢を見ているのだろうか。これは夢の中で、ほんのちょっと若くなったお父さんの偶像を見ているのだろうか。
テーブルに座って、食事に私も加わった。
今日のお母さんは、いつもより、おしゃべり。会話が途切れないように、一生懸命になっているような気がする。
いつもと変わらない夕食の風景。
普通の団欒。
今までは当たり前に思っていたことが、ある瞬間に崩れ去っている脆さを持っている。
私達家族は、知らないうちに、奥深いクレパスの上にかかっている雪庇の上で過ごしているだけなのかもしれない。
突然、お父さんは持ち上げた味噌汁が入っているお椀を落とした。
お父さんの手からすり抜けたお椀は、テーブルの上でだらしなく口を開けて横たえた。
白いレースのテーブルクロスをどす黒い血糊のようなシミが広がって行く。
お父さんは、自分の目の前に広がって行くシミを、吐血した人が自分の吐き出したものに驚いているような表情で見ている。
お母さんは、隠していたものが見つけられたかのように零れた味噌汁を布巾で拭い去った。お母さんは、何度も布巾を洗ってきて、まだ残っているテーブルクロスに出来た茶色のシミを懸命に落とそうとしている。
それを済まなそうに黙って見ているお父さん。
唇を噛みしめて、何かに必死に耐えようとしている。まだ消えない茶色のシミがよほど悔しいのかお母さんの目には涙が溜まってきている。
私は、それを他人事のように見ている。
お父さんの存在が現実ではないような気がして、夢の中にいるような気がする。
これは、現実じゃない悪い夢を見ているだけだと思いたい。
当たり前の団欒の風景が、色褪せた写真のように過去のものになって行くのが怖い。
つづく
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