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短編小説『悲しくなるほど美しい』

暫く歩いて閑静な住宅街を抜けると、小さな町工場や倉庫が立ち並ぶ、殺風景なところに出た。

そこを通り抜けるのが、淀川の花火大会が見える名前の知らない用水路を大きくしたような川の土手たどり着ける近道なのだ。

干からびたアスファルトの道路。枯れ果てた街路樹のように無造作に立つ電柱。切りっぱなしのトタンでできた人気のない建物。

辺り一面に赤さびがこびりついている。

それは、古い血痕のように黒ずんでいて、乾いた血のような鼻につく臭いが立ち込めている。

街全体が、中世の絵画のように原色を失って錆びついていた。

そして、その辺りだけが、夜の面影を漂わせ始めている。

人の気配は、旋盤の蠢く音と悲鳴のように聞こえる金属を切り裂く音によってかすかに感じられる。

私は不安になってきた。

香田美月は、さっきから一言も言葉を発していない。

黙ったままなのだ。

何か気に障るようなことを言ったのだろうか。

随分前に妻と幼い娘を連れて行った長良川の花火大会の話が良くなかったのだろうか。

沈黙が続いている中で、この無機質な一角に入り込んでしまっていた。

彼女は私に対して、不審な思いを描いていないだろうか。

彼女は、私が良からぬことを企んでいると思っていないだろうか。

私は心配になってきた。

その反面、この錆びついた無機質の空間の中で彼女の歌を聞きたくなってきた。

この空間に彼女の歌が響くと、辺りの風景が一変してしまうように思えた。

このくすんだモノトーンの世界が、色づき始めて息を吹き返す。

そんな気がした。

頭の中で香田美月の歌が流れ始めた。

ライブ会場でスポットライトに照らし出された彼女の顔が鮮明に蘇ってきた。

「いい歌だね」

思わず口に出てしまった。

自分でも、なんの脈絡もなしに言葉が出てしまったことに驚いた。

彼女を見た。

モノトーンの世界の中に香田美月だけが、鮮やかな色を持って浮かび上がっていた。

紺地の浴衣に描かれている赤紫の朝顔の花、萌える黄緑の葉。

鮮やかに映える。

透明な白さのキャンパスに印象派の画家が職人技とも思える筆致で丁寧に書き込まれたような顔立ち。

特に際立つのは、暗闇の中でもわかるほど大きく見開かれた愁いに満ちた瞳。

それらは恐ろしいくらいに美しい。

彼女だけが、色彩を持った存在なのだ。

立ち止って、ずっと香田美月を見ていたかった。

私は、彼女のこの美しさをずっと脳裏に残しておきたいと思った。

しかし、それはほんの刹那だけで、永遠に続くものではないと悟った。

いつかは、暗闇に溶け込んでしまう。

この街のように色あせてしまうのだ。

私は「美しさ」とは、こんなにも切ないものだとは思ってもいなかった。

「美しさ」とは、こんなに悲しくなるものだと思ってもいなかった。

「いい歌だね。また聞かせてくれる?」

―あなたは美しい―

ずっとそのままでいて欲しいという思いから出たのは、意外にもその言葉になってしまっていた。

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