非モテ男性と与えない平等論


 モテに関する話題というのは、とてもインターネットでは話題になりやすいし、場合によっては炎上をも引き起こすくらいのものである。
 特に非モテ男性に対する苦しみや、そこからなんとか脱却することを目指すような言説というのは、炎上しやすいものであり、非モテ男性向けにそこから脱却する手段を提示した者が、大きな批判を浴びてしまうようなこともある。

 代わりに提示されるモノと言えば、つい先日も話題になったのだが、非モテ男性には異性との関係を諦めることによって自分自身の呪いを解くことを重要にすることであり、諦めて別のことをするべきであると。


 また、これらの話題には、非モテ男性の苦しみについては社会(とりわけほもソーシャル的な部分)が悪く、その構成員である男性自身が生み出すものであり、それを批判するべきである。そこを突破すれば、苦しみから逃れることができる。と言うような主張がリベラル的な側面から同時に指摘がくる。

 だが、これらの意見は本来、社会運動の性質を考えるのであれば、異様な光景であると言えよう。社会運動というのは何らかの権利獲得や失ったものを取り戻す事を是認するためのものであり、そのために色々な人に権利を認めされるものである。
 その権利とは、従来よりもより広く認められる部分が増えることを目指すものだ。

 例えば、LGBTならトランスジェンダーは更衣室などの利用に関する部分や、同性婚の承認などといったものがあれば、貧困に関してはそこから脱却するための諸制度(生活保護、フードバンク、職業支援など)を拡張するようなことを主張するだろう。黒人差別の時だって単に迫害を受けないようにしたいだけではなく、同じ空間に同じようにいることや、職業、修学、選挙など色々な権利の拡張を主張してきたのであり、アファーマティブアクションのような是正措置も求めてきたものである。

 通常は何らかの権利拡張を伴うものである。中には一定の状態を保ってほしいような要請もあるだろうが、基本的には今よりもより権利を獲得するために行うのである。だが、本件は権利獲得ではない。権利を諦めてもらうと言っているのである。真っ向から従来の流れと対立するのだ。
 これは男性の権利関係の話において、非モテに限ったことではない。制度や法律、慣習といった側面でことごとくリベラルと対立するのは目にしているだろう。
 権利拡張をする場面で、徹底した男性に対する不利益はなく、男性こそが起こした問題だからこそ、これはやむを得ないことなのだ。そんな理由を提示するのも珍しくはない。

 本件もその例に漏れず、男性であるからこそ。弱者性を持っている非モテ男性であるにもかかわらず、弱者であることを理由に何らかの支援と言ったところを拒絶したのである。

 もちろん、非モテ男性の権利を認めると言うことは何らかの負担をどこかに向かわせなくてはならない。そうなったときに不利益を被るのは女性であることは目に見えている事も拒絶する理由であろう。

 そういったことは拒否したいことがよくわかる。自分の好みでもないどころか、関わりたくないような人物と関係を持ちたくない。だから、これを拒絶するために、我々こそが被害を受ける立場の人物であるという話を作るわけである。「女をあてがう」と言ったような言説が生まれたのはこの流れである。(結婚することで、幸福になる可能性が女性にあったとしても、それは考慮する事項にはない。)

 この問題を解消するために出した結論が、非モテ男性には「与えない」事を決めたのである。そうすれば、自分たちには何ら負担はないし、不利益を相手に押しつけることが出来るのだから、これほどおいしいことはない。

 それだけですめば良いのだが、仕方なく従った非モテ男性には更なる追い打ち、萌えに対する批判や性役割強化がくるのは言うまでもないことである。とことんふざけているが、大真面目に彼らに色々なものを押しつけることこそが、男性社会の解消であり、「平等」になると思っているから始末に悪いのである。


「草食系男子」という言葉を隠れ蓑として、自身は男性役割や男らしさの規範から逃れながら、女性には相変わらずこれまで通りのジェンダー規範を求める「美味しいとこ取り」の男性が増えたとしたなら、むしろ事態は悪化しているとも考えられます。




 非モテ論から垣間見えた態度というのは、様々な面と比較して異様なほどに違った態度であり、非モテに対する諦めることを肯定する反応も含めて、あまりに従来と違う反応を示したのである。
 その部分に気持ち悪さを感じたからこそ、一定の人々にとって大きな反発を生む結果になったのである。

 当人たちが苦しんでいても、自力救済と内省的な行動をひたすら求められ続け、苦しみを吐露すれば口ではそれを認めてくれるようなことを言ったとしても、その実は更なる役割や苦しみを吐くことを許さない様なマネをする。
 男性という属性であるから、このような扱いをしてもいい。隠すべき本音がだだ漏れしているにもかかわらず、善意であるように振る舞うのである。権利などを「与えない」にもかかわらず、何かを施したかのように気分良くやっている姿を見て、その傲慢さに反発を覚える人がいるのも無理はない。


 では、対立を生まないようにするにはどうすれば良かったのだろうか?本来なら、男性性を降りるのなら、そうなったとしても不利益がなかったりそれを軽減するための保障を「与える」ことだったのだろう。女性が社会進出をする際などに、労働に不利益がないよう男女雇用機会均等法などの法整備を整えたり、結婚についての強要や退社を防ぐために色々な手段を講じたりと、権利のために色々な「保障」となるべきものを作ったのと同じように男性にも、男性性を降りた後のことを保障するべきだったのだ。リベラルの人々が今まで行ってきた行為をここでもだしてあげるべきだった。そうすれば、下手な反発もなく受け入れた人も多く出たはずである。

 が、これらは本件や上昇婚思考などによって既に瓦解しており、それを是正するような動きもないことから、もはや語るまでもない。


 過去の行いと同じ事をするべき場面で、ことごとく真反対の態度まで取ってでも拒絶する。「与えない」こそが平等という新しい概念を今作り出されようとしている。

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