取柄なき、あいちトリエンナーレ ~足りないものが多すぎた~

 

 開催してからいきなり炎上をしてしまったあいちトリエンナーレであるが、問題となっている表現の不自由展が展示中止になってから時間がたっても、まだまだ火種がくすぶっている状況であり、状況次第では再燃しうる可能性もあるだろう。

 個人的には、もともと期待はほとんどしていなかったが、あまりの竜頭蛇尾っぷりにものすごくがっかりしてしまったものだ。もうちょっとくらい頑張ってくれると思っていたのだが、あれはダメすぎた。

 時間もだいぶたってきて、情報もいくらか出てきたこともあり、ここで何が足りなかったかというのでも、勝手に総括しようかと思う。

1 あまりに早すぎる撤退

 表現の不自由展で一番の問題だといえるのは、なんといっても中止までの早さだろう。

 あいちトリエンナーレは8月1日に開催されたわけであるが、その日のうちに抗議が殺到。8月3日には早々に作品提示の取りやめ。実に早すぎる対応にも批判が殺到する形となった。

 後の段落にも書く内容だが、内容が過激であったりする場合には周りからの反応というのもかなり強くなる。そういった時にどれだけ踏ん張って表現を主張し続けるかに、この出展も本来の意義はあったはずである。
 だが、この素早い撤退には表現の自由を訴えるにはあまりに情けないというほかないだろう。

 逆に、表現の不自由をより強化してしまったと考えるのが相当である。抗議による中止を表現の不自由展をまさに完成させたものであるというように言っている暢気なものもいるが、これからもこういったことが続く懸念を増やしたことについて、あまりに無頓着である。
(また、ほかの作品にまで取りやめということになってしまったことも、大いに留意していただきたい。)

2 不自由な表現を選んだことも大きい


 また、失敗と感じる大きな原因の一つとして、表現の不自由を取り扱うためのものであるにもかかわらず、表現を選んだというのも大きな失敗の原因だろう。



 会田氏自身は、人間であるゆえに出展する表現に偏りがあることも認めてはいるが、やはりこういったことを委員会の中でやってしまうというのは印象が悪い。
 特に、かつて性的表現に抗議したものが委員会に入っているというのは痛手が大きい。自由を主張しながら不自由を行使する者がいるという究極の矛盾関係は、修復しようがないほど趣旨に反するものといえる。

 また、津田氏本人もかつてこのようなことを主張しているのだから、始末にをえない。



 表現の不自由をうたいながら、そのほかの規制された表現に関して選んでいるのではないかというのは、さんざん指摘されてきたわけではあるが、そういったものを浮き彫りにさせてしまったというのは、大きな負債となるだろ。

 特に、今まで表現規制の煽りを受けて苦しんでいるにもかかわらず、彼らから無視され、なおかつ攻撃も受けてきた者たちにとってはその恨みは深い。

3 想像力の欠如と覚悟のなさ。

 表現がかつて規制され、不遇をかこつものを扱うということは、内容としては当然過去に誰かから反発をもらったり、不快感を示されるという負の部分を持っているものが多い。

 二次元関連の表現や女性差別(と相手が思ったもの)関連の表現規制勢力といったものを見てきた人たちにとっては、特によくわかっている内容ではないだろうか。

 そういった表現をあえて掲載するということは、当然に単なる講義だけではなく、脅迫や示威行為を行うものも出てくるだろう。警備内容も事前に強化しておくことも十分に考えていかなければならないし、怪しい人物が来れないように身体検査などのチェックも必要だっただろう。
 だが、そういった準備は不十分だったのではないか?という状況であったようだし、下のツイートを見ると、甘く見ていたと考えて間違いない。


 表現の内容が過激だったり不快感を与えるようなものであるのなら、覚悟を持って対応するべきではなかっただろうか?このインタビュー内容を見るにとてもじゃないが、これから起こるであろう事態を想像していたとは言い難いのである。

 もちろん、脅迫などを行うものが悪いのは言うまでもないが、碌な準備のないまま進んでいってしまったというのは、責任者としては準備不足であるといっていい。
 後に、京都アニメーションなどの件を理由に言い訳をしていたのだが、表現関連でシャルリーの件や、香山リカ・百田直樹などの講演会が中止になった事例を先に考えておけば、大きな事件というものではなくても、混乱が出ることくらい想像がついていたはずである。

4 責任者の責任転嫁の跋扈

 取りやめ後の周辺人物の、狼狽っぷりや責任転嫁もなかなかひどい話である。

 自治体の長であり、本件にも密接にかかわっている大村知事もはじめのうちは表現の自由の侵害であるとして戦う姿勢を見せいていたのではあるが、なぜか突如2019年8月2日以降のツイートを一部削除してしまった。

 自分のブログに掲載したことや、他の方に迷惑をかけたからというような説明がなされているが、具体性がある内容ではなく、説明としては不十分だったといえる。

 また、ついには美術作品の選定責任に関しては津田氏が全責任を負っていると逃げの姿勢と取れるような言動を取っており、最初に表現の自由の侵害といっていたころに比べるとトーンダウンしているようにも見られる。

  知事自身は、表現の自由に干渉してはいけない故に、表現内容に関しては津田氏の責任にしておかざるを得ないというのだろう。が、内容を見たうえで、どのような事態になるのかを想定すべきだったのではないか?
 運営の円滑さをうたうのであれば、それくらいをやる責務は知事にもあったのだろう。中身を全く見なかったわけではあるまい。
 事態を想定して、動くことすら怠ったといえる現状では、責任逃れといっていいような説明である。 

 また、アドバイザーの東浩紀氏も、責任を取って辞任というわけであるが、言い訳ももう少し何とかならなかったのだろうか?という面が強い。


津田さんの責任について以下のように言及した。

「海外のアーティストは表現の自由を訴えている。けれどもそれは日本の市民には特定のイデオロギーやプロパガンダに賛同する党派性のように見える。このようなねじれを作り上げた責任は津田さんにあり、彼はそれを早急に解きほぐさねばなりません」

 党派性に関しては、先のインタビューにてすでに分かっていたのであり、内容に偏りがあった時点で最初から指摘するべきだったのではないか?しなかったのにもかかわらず、責任を押し付けるのはいくらなんでもひどい話だ。最低限、もっと前に指摘してだめならやめるべきだったといえる。

 彼も、津田氏とはそれなりに付き合いがあった故に甘い反応をしただろう。ならば、尚更最初からアドバイザーのような役職に就くべきでなかったといえまいか?

 このように、周辺の人々も責任をなすりつけようという感じが、運営能力に疑義を感じざるを得ないものといえる。

5 選定基準の謎とずさんさ


 津田氏自身も、芸術作品の監督というのは未経験である。一応はジャーナリストという肩書を持ってはいるものの、なぜ選ばれたのか?というプロセスに関しても、あまりに納得ができない。

 従来なら、芸術作品をよく知っている人が監督になるのが通常であろうが、誰が彼を選び、どの部分を具体的に評価したのかもわからない。
 それどころかどこを見ていたのか?と伺いたくなるようなものまで見つけることができた。


  ここまで見ていればわかるだろうが、彼の作品の選定基準の偏向度合い、展示後の反応に対する危機感や想像力のなさ、準備不足というおのもあれば、彼自身の過去の行為を良く調べてみれば、彼を選んだ理由としては大いに疑問を感じざるを得ない。

 責任となるものを選ぶ段階でも、何らかの忖度やコネのようなものを周りからは感じさせる選び方になってはいないか?


6 まとめ

 津田氏及びその周辺の方々は、つまるところ表現の不自由展をやるには足りないものが多かった。いいところというは存在せず、悪い面をより強化させることにしか貢献していないといえる内容だったといえる。

 ヘイトではないだろうかというような批判もあったりしたが、どのあたりがそうなのかや、どのあたりがそうではないかというようなことが外野からは聞こえてきたりはしていたが、とうの監督などからはさして聞こえてこないあたり、説明責任も果たしていないのではないだろうか?

 これなら最初からやらないほうがマシであるといえる代物である。津田大介氏及びその周辺の方々は、最初からこういった場を取り仕切るには、能力が著しく乏しいというのが結論である。

 最後に、主催者様にお届けしたい言葉があるとすればこんな感じでしょうか?

お前に足りないものは、それは!
情熱・思想・理念・頭脳・気品・優雅さ・勤勉さ!そしてなによりもォォォオオオオッ!!

速さが・・・あ、すいません。早々に取りやめはしたので速さは足りてますね!!


 ここからはおまけです。読んだ人だけ、投げ銭感覚でちょっともらえればいいと思います。特別に本件の感想と今後の懸念を書いてありますので。


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