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あがり症を克服できそうな話

あがり症だと思う。しかも人見知りで、人前が大の苦手。保育所の頃は毎日のように、担任の先生と手を繋いでいた。

そうだと自覚したのが小学生低学年の頃。朝礼で先生に一人一人名前を呼ばれて、「はい、元気です」っていうやつ。自分の番が近づくと、毎日ちょっとドキドキして、声が裏返ってしまわないか、自分の情けない声を笑われやしないか、名前をとばされたりしたらどうしよう。そんなことを考えていた。

周りは皆笑顔で、元気いっぱいで、机の上を片付けていたり、紙に絵を描いたりとか緊張した様子は全くない。絶対に自分だけだ。こんなにドキドキして、手が冷んやり冷たくて、薄ら汗をかいてしまうのは。

そんな自分を好きになれなかった。だって、普通に教室にいるのは友達だけ。仲のいい子だっているし、クラスで浮いていたわけでもない。普段友達と話すときは緊張しないのに、いざ、友達の前に出て話すとなると、ガチガチに緊張してしまう。

どうしたらいいんだ。でも、緊張してしまうものはしてしまうし。コントロールなんてできっこない。

特に酷くなったのは小学五年生のときだと思う。担任の先生がちょっと怖いおじさん先生で、好きにも嫌いにもなれない先生だった。いいところはマラソン大会の練習の時、最後尾から声をかけながら一緒に走ってくれるところ。応援もしてくれる。個人的に好きになれなかったところは、授業中に答えられなかったら立たせられるところ。その先生の授業はいつも静かで、ピンっと糸が張ったような緊張感がずっとあった。自分には先生の授業がとても怖くて、逃げ出してしまいたい程苦手だった。

その先生は多分結構雑だった。長い休み明けの全校朝会の時にスピーチをする人が学年ごとに一人ずついて、それを誰がやるかを決めていた時、偶々自分の席が教壇の前の席で、話している先生をぼーっとみていた。誰もやりたがらないから、どうするのかなと思っていたら、先生とバッチリ目があって数秒、「よし、お前がやれ」。は?え、嘘でしょ。

無理無理、本当に無理だって。人前が本当に苦手なんだってば。でも、話はもう変わってしまったし、自分も言い出せるような子じゃなかった。

結果は散々だ。冬休みだったから、スピーチの内容は休み中にやったことと、去年一年を振り返って、今年の抱負。ちゃんと考えて、何回も何回も練習したけど、ステージに立てばもう足はガタガタだったし、頭も真っ白、声も震えて、手は異常なほど冷たかった。絶対冬だったからじゃない。

話した内容なんてほとんど覚えてなくて、つっかえまくったことと、めちゃくちゃ怖かったことしか覚えていない。もう絶対やりたくない。

それでもっと人前が苦手になった。今考えてみれば、多分自分はそこそこ真面目で、人前で失敗なんてしたくなくて、思った通りにできなかった自分が嫌になって、周りからどう見られているのかを気にしすぎていたんだと思う。

失敗してるって笑われたらどうしよう。つっかえてしまったところを真似されたら恥ずかしい。服が捲れていたらどうしよう。変なところはないよね?転んでしまったらどうしよう。ちゃんと喋れなかったらどうしよう。先生に怒られたらどうしよう。練習もしない、いい加減な人間だと思われたら嫌だな。

多分そんなことばかり考えていた。もう頭は真っ白で、練習した通りに喋れず、全身ガクブル。冷や汗ダラダラ。散々だった。本当に。

それからできるだけ逃げた。苦手意識だけが残って、自信なんてこれっぽっちもつかなかった。逃げられない時は、毎回不安で、怖くて、後からぐるぐるとこうすればよかった、もっと上手くできたはずなのに、変だと思われたらどうしよう、とか。本当に苦手だった。

自分で自分を追い込んでしまっていた。情けない人間だ、駄目な人間だと自分を下げて、なのに、周りにはそう思ってほしくなかった。自分がつけた自分への評価と、他者に思われたい自分の乖離が激しくなって、どんどん自分に自信が無くなった。自分に自信が持てなくなった。

褒められた時の第一声が、いや、あの子の方が、とか、でも、まだここが、とか。絶対に人に好かれるような人間では無くなった。褒められたことが嬉しいのに、自分はそれを素直に受け取れなかった。その場を濁すようになった。

そんな自分がまた嫌になって、自信が無くなって、苦しくなる。それの繰り返しだった。

転機というものは意識しなくても訪れるもので、これに関する転機の一つ目は、当時仲の良かった友達に言われたことだと思う。

その子は、好き嫌いがはっきりしている子で、得意不得意もはっきりとしていた。絵がとっても上手で、運動も得意。鉄棒だって、跳び箱だって、球技だって、なんだって上手だった。勉強はあまり好きじゃなさそうだったけれど、とても利発な子で、ただ、興味が勉強に向いていないだけのように思えた。

自分はその子が大好きだった。自分をしっかり持っていて、人前で自分の意見を言える。格好良くて、尊敬していた。でも、はっきりな物言いから周りからちょっと距離を置かれているような子だった。

その子になんだったか忘れてしまったけれど、自分のふとした何かを褒められることがあった。嬉しかった。けれど、自分はいつも通り、でも、あの子の方が、とか、そういうことを言ってしまった。

するとその子にはっきりと言われてしまった。

「そういうの、やめた方がいいよ。そんなことないよって言われたい女子みたいでウザい」

確かに。そう思った。自分はそう思って言っていたわけではないけど、そう見えても仕方がないかもしれない。それに、そういう女子を嫌っていたわけではないが、自分がそうなりたいかと言われれば、なりたいわけではなかった。

しばらく考えて、絵を描いているその子の絵を見ながら、なんともなしに問いかけた。

「じゃあさ、絵が上手だねって褒められたら何て返すの?」

「ありがとう。これだけ」

と、言っていた。その子は自分の絵に自信を持っている。そんなにも自信に満ちていて格好良く見えるのは、その子が「ありがとう」と褒められたことを受け止めて、認められているからかもしれないと思った。

とても格好いいことだと思った。そして、自分もそうなりたいと思った。だから、その子の真似をしてみたのだ。

「ねぇ、さっき褒めてくれてありがとう」

するとその子は

「いいね。うん、絶対そっちの方がいい」

と笑ってくれた。それがなんだかむず痒かったけれど、心がポカポカした。その言葉が印象的すぎて、何を褒められたのかは忘れてしまったけれど、このことは一生忘れられないと思う。

二つ目の転機は人から離れた時だった。家で一人でいる時間が多くなったら、なんというか、自分を見つめ直す機会が多くなった様に思う。

まず、自分の得意なこと、好きなことがなんとなく分かってきた。それらはやればやる程上手くなるし、楽しくなる。

誰とも比べられることのない環境で、上達するのを実感する度に、自分を卑下することが減っていった。少しずつ、自分を認められるようになって、自分の成長を自分で褒められるようになった。

昔から感じていた乖離がだんだんと小さくなっていって、自分に自信が持てるようになった。

そうしたら、今までどう見られているのかが怖くて仕方がなかったのに、自分がどう見られたいかを考えるようになった。これは、自分が昔より年齢を重ねたのも大きいと思う。

あがり症とか人見知りは多分、自分の性格の一つで、どれだけ努力したって完璧に治るわけじゃ無いと思う。大の大人になったって、人前に出たらガクブルかもしれない。けれど、自分に自信を持てたら、それでもいいと思えるようになった。

まだ、人前で何かをすることを考えると、ドキドキするし、酷ければ手も震える時がある。でも、昔より確実に落ち着いたと言えるし、頭が真っ白になることも減ったと思う。

もしかしたら、あがり症を克服する日は近いのかもしれない。


#エッセイ

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