骨とロック。
まだ頭の中で解決も決着もついていないような話をする。
面白い文章を書く人がいる。
小説家でも文章を生業としていなくとも。
しかもこのnoteに限らず、あらゆるところに結構たくさんいる。
ふいに読んで「面白いな〜」と思う文章に出会えると清々しく満足して、それと同時に自分がnoteや SNSで何かを発信するのがなんだかもう全部陳腐に感じられて、何を書いても虚しくへなへなとチカラが抜けてしまう時もある。
実際いま、たぶん、そうだ。
なのに書いてる。
私はやっぱり、書くことや作詞が好きで、日常的に言葉から影響をたくさん受けて、それが刺激になってやっぱり書きたくなっている。
「作文がうまいね」「日記が面白い」と唯一褒めてもらえた幼い頃の甘い記憶が、さらに私を「書く」という呪いにかけているのかもしれない。
未だに文章や歌詞を褒められる事が、何よりも幸福の養分になっている気がする。
北九州市のタウン誌『おいらの街』
通称「おいまち」でも何年間かバンドのコラム連載をさせてもらっていた。
今は廃刊してしまったけれど、毎月バンドのことや、身の回りのことを〆切に追われながら書いた。
時間に追われ睡眠を削りながら書いた文章が、
コンビニや本屋に並んでる雑誌に載っているのをみると、まるでコラムニストにでもなれたような気分を味わえたけれど「お金は一切いただきません。全てはバンドの宣伝になりますからオーっほっほっほ。」と、笑ゥせぇるすまんバリに無報酬で書き続けた。
いくら褒められた分野でも、読書もまともに出来ない自分の文才で、お金を貰えるなんて到底思っていないので、むしろ売れてもいない無名のバンドマンに1ページもくれている事にとても感謝していた。
知らないおじさんに通りすがりに「コラム読んでるよ、頑張って」と声をかけられた時は
わあ、ちゃんと身内以外にも読んでもらえているんだ!何かしら実っている!と感激した。
そういった日々の何げない褒美のような言葉で無償の「やる気」がチャージされていた。
もちろんお金につながるなら、それが何よりうれしいけれど。知名度無し。まずは知ってもらえる事が大切な一歩なのだ。
知らない人と言葉だけで近づいて、言葉だけでつながろうとしている。
SNSは情報を得る為だけで、自分は発信しない観覧用に色々なアカウントを持ってるよ!って人も世の中にはたくさんいると思う。
でも日常的には(職種によるが)業務連絡もプライベートでも、メールやLINEは言葉でやり取りしている。
絵文字の笑顔が文末にある無しで機嫌を計っていたり「いいね」を押すのも無言の「言」を表現しているし、時にはボタンのハートが一言よりも意味をもつ事だってある。
メールひとつでも、思ってないことを書けば建前だけの、挨拶のような中身になってしまう。
熱心に書いて送れば「良い人だな」と素直に思ってもらえる場合もあるだろう。
また、どんなに手厚い言葉を送っても、思ってもいない事をいくら送ったところで、無音無風の記号のように、相手は文字を眼でスキャンするだけで終わってしまいそうだ。
だから言葉は難しい。
メールひとつ、選んだはずの言葉が裏に表に受け取る相手の風向きでも意味が変化してしまう。
どんな立場、容姿、年齢であろうとも日記や手紙に限らず、ちょっとしたメッセージ、メールの言葉のもとでは皆が平等に、その人物の「中の人」が透けて見えてくるように思う。
どのくらい知識があるか、言葉を知っているかよりも、どのくらい自分と相手に対して正直に、素直に思うことを伝えられているかが大切な気がする。これまた難しい。
取り繕った建前の言葉が悪いとは思わない。
むしろ深入りしない為の仕事のやりとりでは、建前のメッセージが、雑味のない清潔感を生む場合がほとんどかもしれない。
職場では定型文のやり取りで、人格を隠している。プライベートで自分が普段どんなにダメでも、ビジネス定型文でそれっぽくなる。こわい。
小学生の頃から書くことは苦痛ではなく、むしろ好きな方だった。
小学5・6年生の時、毎週月曜日の授業前のちょっとした時間で書く課題「先生、あのね」をノート何ページにも延々と書いた。おそらくこれが今も止まらない、ブログやnoteの原点だと思う。
どんな事を書いても担任しか読まない、授業の科目でもないから通知表にも反映されない気楽さが好きで、自由気ままに書きまくった。
1時間目の授業まで食い込んでも止まらず、書いている間はずっと夢中で遊んでいる気分だった。
この気持ちはバンドで歌を歌っている時と感覚がとても似ている。
言葉って日常では正確な記号や数字のようでいて、その人の心の「骨」ような役割にも思える。
そう思うと、我が骨は鰯のように細々ちまちました弱い小骨がたくさん。いちいち喉仏にひっかかりそうな小骨で、心の筋肉を動かしている。
骨の本数少なくとも、カルシウムたっぷりの、どっしりとでっかくて、丈夫な心の骨を持ちたい。いつだって心マンモスやっぴーがいい。
でも、言葉少なく、まるで心の「骨」が見当たらないような人にもいる。
語らずとも、書かなくともクラゲのように美しく光り、漂うように存在する魂の持ち主。
そんな人にもまた、特別に憧れてしまう。
言葉って、ことばって、心を動かす骨。
書いて、歌って、どこまで自分を動かせるんだろうか。
こんがらがって、とっちらかしたままで今日はおしまい。
2,220文字分のひとときを、どうもありがとうございました。
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