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船越さんとの一日

2012年5月─── タイに移住した当初からブログを始め、日常のことを綴ってきた。
私みたいに何もなくても、意識が低くても海外移住できるっぽいよ!ということを発信するために。
その4年後心機一転ブログの引っ越しをし、その際にやらかしていくつか記事を紛失、復元不可能となってしまった。
その失われた記事のひとつを、思い出せる限り書いておきたい。
ブログではなくnoteに書こうと思ったのは気分です。

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前書き、はじめてのアパート暮らし

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2013年、私はタイの東北部ノンカイ県にあるターボという小さな田舎町にいた。メコン川の向こう岸にラオスが見える。そんな所。

移住当初から一年お世話になったホームステイ先からターボのアパートへ。
牛やヤギに道を塞がれるようなのどかな村から、牛の歩いていない町へ。
子供との二人暮らし。生まれて初めて外国で部屋を借りた。

通りがかりに「今部屋は空いてますか?」と聞いたら、「こことこことここが空いてるけどどれにする?」と聞かれた新築のアパート。
水シャワー、エアコンなしのワンベッドルーム、駐車スペースあり、月2,500バーツ。(2019年7月現在のレートで8,700円ほど)
即日引っ越し可。審査なんてもちろん、礼金もない。デポジットとして先に払う家賃はそのまま最初の家賃になる。つまり敷金もなかった。
日本人だと伝えると、「そうかそうか、いつから住むんだ?」と大家さん。なんだか心配になって自らパスポートを差し出した。
「明日から住んでもいいですか?」「いいよ。」
いいんだ。すごい。

アパート暮らしは思ったよりも快適だった。
心配だった水シャワーも慣れれば意外と大丈夫だったし、裏の野外キッチンも夜は蚊の餌食になるけど、室内が汚れないのは悪くなかった。蚊帳を買い、部屋裏の隙間には網を買って来て張った。蚊が入ってくることも減り、ちゃんと眠れるようになった。
人間は与えられた環境でなんとか生きていけるものなんだと思う。

エアコンがないことで電気代がびっくりするほど安かった。ひと月200~300バーツ。(約700-1,050円)
一度電力会社から請求が来なくてどうしたんだろうと思い、ふと前の大家さんが「タイでは200バーツ以下の電気代は無料になるんですよ。」と言っていたのを思い出した。水道代もはちゃめちゃに安い。記憶に残っている水道料金の請求書の金額は40バーツ(約140円)。
「タイでは、貧乏でも生きていけるようになってるんです。」
そう言っていた。

そんな海外での初アパートはとてもおもしろかった。
めぞん一刻みたいな物語が書けそうな気すらする。(すみません言いすぎました)

私は2号室。3号室は銀行で働くドーちゃん、4号室はフランス人ダーリンと遠距離恋愛しつつ養ってもらっているティッちゃん。それから6号室は妊婦のエーンちゃん。
普段はとても穏やかで良い人だけどアル中の大家さん夫婦も敷地内に住んでいて、ほぼ毎日家の前にゴザを敷いて呑んでいる。
大家さんに捕まってお酒を呑んだり、人なつっこく英語が喋れるティッちゃんの部屋にみんなで集まったり、誰かの部屋の前で肉を焼いて酒を呑んだりする日々。時には大家さんの親族と。時には誰かの家族や友人と。
酒浸りの日々だった。

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基本的にタイ人は玄関のドアを開けっぱなしだし外で食事をするのが好きなので、通りかかるとすぐ見つかる。
通りかからないと部屋まで呼びに来る。
アパートの敷地内のどこかしらに集まって誰かしらと一緒に過ごすことが日常となり、長男に至ってはでかけて帰ってくると自分の家を通過してティッちゃんの部屋に帰ったりもしていた。
毎日のようにお呼びがかかる。出先に電話がかかってきて、ごはんを作り過ぎたから帰って来いと言われたりする。たまに昼間っから呑みすぎた大家さん夫婦の怒鳴り合う声が聞こえる。そんなアパート暮らし。

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エーンちゃんと船越さん

妊婦のエーンちゃんは一人暮らしだった。
色白で木村佳乃みたいなエーンちゃん。実家は少し遠いけど、警察官だという旦那さんの職場がターボになったから通いやすいように引っ越してきたんだと言っていた。けれど当の旦那さんはたまに来る程度で、エーンちゃんは私たちと一緒にいる時間の方が長かった。
警察官だから忙しいのかな、ぐらいに思っていたけど、実際どうだったのかはわからない。

初めて会ったエーンちゃんの旦那さんは、白いスラックスに白いワイシャツを着て、部屋の前の椅子に大股を開いて腰かけ、七輪で牛タンを焼いていた。うちわで自分と七輪を交互に扇ぎ、ビールを呷る。
傍らには大家さんの奥さんとそのお姉さん、エーンちゃん。
ちょうどお昼を少しまわったぐらいで、大家さんの奥さんはもう酒がまわってゴキゲンだった。
「こんにちは。マイコです。」と挨拶をすると、「そうか、マユコ。牛タンを食え。」と言う。「俺は牛タンが大好きなんだ。」
真っ白な上下を着こなしているからだろうか、なんだか昭和の香りがした。
そしてすごく船越英一郎に似てるな、と思ったので、心の中で船越さんと呼ぶことにした。

お呼ばれご飯

ある朝子供を送り出しに外へ出ると、船越さんが車の傍らに立っていた。
「マユコ、ちょっと来い。」と呼ばれて近づくと、「これを見ろ。」と車のフロントガラスを指さす。他のタイ人はみんなマイコと呼ぶが、船越さんの中で私は完全にマユコだった。
「かっこいいだろう。何て読むんだ?」と船越さん。
残念ながら私にもフロントガラスに貼られた『プロジェクトR』の意味がわからず、「日本語だけど私もわからない。」と答えた。そうか、とさして気に留めた様子もない船越さん。
「夕方大家さん(奥さんの方)のお姉さんの家で、スキを食べよう。」と続ける。スキとは日本でいうタイスキのことだ。タイ版しゃぶしゃぶ。
そういえばこの間お姉さんもそんなことを言っていたなと思い出しながら了承の返事をした。

長男が学校から帰ってくると、エーンちゃんが「食材を買いに行こう。」と誘いに来た。
エーンちゃんのバイクに三人乗りでテスコロータスという全国展開のスーパーへ。イギリス系のスーパーだそうで、日本人はテスコと呼ぶし、タイ人はロータスと呼ぶ。
これでいいやと適当なお肉や練り物、スキセットをカゴに放り込むエーンちゃん。スキセットはカット野菜とタレがセットになっており、もう鍋で煮るだけだ。お手軽だが美味しくはなさそうだった。

お姉さんの家に着くと居間の床にはすでに鍋が用意され、準備万端と言った様子だった。タイの田舎では床や地面にゴザを敷いて、その上に置かれたごはんをみんなで囲むのがデフォだ。
毎日がピクニックみたいな感じ。

中学生くらいのお孫さんと子猫が遊んでくれたので長男のテンションも上がりっぱなし。
船越さんとお姉さんは飲みっぱなし。
買ってきたものをぶち込むだけのスキはあっという間に出来上がり、やっぱりあまり美味しくなかった。
タイに来てから何度か手作りのタイスキをご馳走になる機会がありそれらがとても美味しかったので、テスコロータスのお手軽セットでは到底敵わなかったし、一緒に食べていたタイ人も口を揃えて「やっぱり美味しくない」と言っていた。
わかってはいたらしい。

「マユコ、車の運転はできるか。」
すっかり出来上がった様子の船越さんは「ビールを買いに行くぞ。」と言い出した。
私はコップに少し飲んだだけだったけど、道もわからないし普段ほとんど運転もしないし何より国際免許の期限も切れていた。
断り文句として「できるかもしれないけど、道がわからない。」と答えると、「じゃあ俺が運転するから行くぞ。」と言う。
エーンちゃんは困った顔をするだけで相変わらず可愛らしい。というか、言っても聞かないのを知っていたんだろう。全員有無を言わさず車に乗せられた。

先にも書いたが船越さんは警察官だ。
運転し出すと同時にどこかへ電話をかけ始め、飲酒運転ならびに携帯電話でしゃべりながら運転するので、マンガみたいな蛇行運転になる。
みんな口々にちゃんと前を見てだの危ないだの言って車内はてんやわんやだ。
いやまず、運転したらダメじゃないのかな。タイはいいのかな。よくわらなくなってくる。

無事にビールを箱で買って生きて戻ることができ、また呑んで、長男は存分に猫と遊び、私もなんだかんだ楽しいひとときを過ごせた。
私はあまり英語が喋れないので英語ネイティブの人と話すと緊張して脇汗がすごいことになってしまう。
当時はタイ語もほとんどしゃべれなかったのに、そういう緊張をタイ人に対して感じたことがないのは何故なんだろう。
マイペンライの国が織り成す空気かな。

暗闇のドライブ

スキを食べる会は早めに始まったので早めに終わり、アパートに戻っていつものようにティッちゃんの家でだらだらしていた。

そこへまたエーンちゃんがやってきて、車の運転ができないかと聞かれた。
なんでも?船越さんが実家の方の警察署にいるので行かないといけない?船越さんの車はあるけどエーンちゃんは車の運転ができない。それから妹が?入院しているからそこにも行かないといけない?みたいな、私のタイ語能力ではなんとなくしか察することができなかったけどそんなことを言っていて、「行って帰ってくるだけだからすぐに済む」とかなんとか。ものすごく困っている顔も可愛いエーンちゃん。
船越さんがいつの間に、どうやってその警察署に行ったのかわからないが部屋の前には「プロジェクトR」と書かれた車が停まっていた。

エーンちゃんの実家へは車で片道30分ほどらしく、すぐ済むとしても二時間ぐらいかかるかなぁ…と目をやった時計はもう20時をまわっていた。運転中眠くてぐずられたら死ぬなと思って、長男はティッちゃんに預けてエーンちゃんとふたりででかけることにした。

久しぶりの、しかも田舎の夜の運転。ヘッドライトが照らす場所以外はほとんどが闇だった。怖い。けど早く帰りたい。
ハンドルにしがみつくようにしてアクセルを踏んだ。

30分以上は走ったと思う。エーンちゃんの道案内通りに進むと病院に着いた。平屋の公立病院。慣れた様子で歩くエーンちゃんの後を追って病室へ。
ベッドにはマスクをした妹さん、床には親族と思われる女性が寝ていた。
タイでは入院する家族を親族一同で世話をするので、病室の床にゴザや寝具を敷いて泊まり込むのが普通だ。

「オー!マイコ、病室では靴は脱がないとダメだよ!」と言われ初めて自分だけ土足で入って来ていたことに気づく。ドアの前に靴箱があって、そこで靴を脱がないといけなかったのだ。日本と違ってこう、いわゆる玄関に外と室内を隔てる段差のようなものがなく、境界が曖昧でわかりにくい。
慌てて外へ出て、そのまま外で待つことにした。家族で話した方がいいよねとなんとなく思ったので。
空を見上げると朧月が浮かんでいた。

少し待っているとエーンちゃんが出てきて、「マイコ、ありがとう。ちょっとだけお母さんの所へも行っていい?」と言う。
こういうのを乗りかかった舟というのだろう。長男のことが少し気にかかったけど、見知らぬ街へとまた車を走らせた。
電気の消えた商店街を抜け、どんどん寂しくなる通り。言われるがままに横道に入ると、背の高い草木の生い茂るジャリ道になった。伸びた枝葉が車体に当たる音が続く。
今にも目の光った動物が飛び出してきそう。急に行き止まりとかになりそう。ここはどこ。私は誰。

やがて一軒の平屋の前に着いた。
エーンちゃんがドアをコツコツと叩くと、お母さんが嬉しそうな顔で出てきた。ハグするふたりを見て来て良かったなぁと思った。
通されたリビングで所在無く座って待つ。ひんやりしたタイルのいかにもタイの家。生活感のある部屋をぼんやり眺めて待った。

私なんでここにいるんだろう。

ふとした瞬間によく思う。
タイの田舎の、縁もゆかりもない人の家にいる私。ちょっと前まで秋田県に住む平凡なシングルマザーだった。人生って本当におもしろい。

夜の警察署

エーンちゃんの実家を出て少し走ると、目的地だった警察署に着いた。
暗闇の中でこうこうと灯りをともす姿はなんだか非現実感のようなものがあり、また何もやましいことなどないのに「警察署に入る」というのはなんだかちょっと落ち着かない。

普段とは違う、制服を着た船越さん。酔っ払いとは思えないほど表情も締まっている。なんだか見るからに偉そうな、まごうことなき警察官だった。
促されるまま入り口から少し入ったところにある部屋に入る。大きなデスクに向かい合う形でパイプ椅子が並んだ、誰もいない部屋。暗闇を走ってきたので蛍光灯と白い壁がやたらと眩しかった。

デスクにふんぞり返って座る船越さんが無言で手を出すので、車のキーを渡し、指と目線で座るように言われ真向いのパイプ椅子に座る。エーンちゃんは私の斜め後ろの椅子に座った。
そしてそのまま沈黙が続いた。

…なんで誰も何も言わないんだろう。
夜の警察署で、私は何をしているのか。
車のキーを預けているので帰るに帰れないし、子供が待っているから早く帰りたい。
エーンちゃんも何も言わないけど、一体何のためにここに来たんだろう?

制服姿の船越さんは大股開きで足を組み、無言のまま私の方を見ている。
なんだ。なんなんだ。この沈黙はいつまで続くんだ。私何かしましたか。
多分5分とかそんなものだったかもしれないけど、やたらと長く感じた。
どうしたものかと困っていると、エーンちゃんが背後からそっと近づいてきて、耳元でささやいた。

「…かっこいいって言ってあげて。」

え?

驚きつつも私は瞬時にそれがここから解放されるための言葉であることを理解したので、船越さんをまっすぐ見つめて言った。

「かっこいいです。」

船越さんはうむ、と満足そうに頷いて、車のキーを持った腕を差し出した。

え?
帰っていいの?
いやいやいやちょっと待って何これ。私まさかこのために子供を置いて夜道を必死で運転して来たの?嘘でしょう?

別れ

それからしばらくしてエーンちゃんは元気な女の子を産んだ。
アパートのみんなが喜んで、代わる代わるエーンちゃんの部屋に行っては世話を焼く。
そしてその年の暮れ、何の前触れもなく別れの日はやってきた。

ある夜アパートに一台のトラックがやってきて、エーンちゃんの荷物を次々に積み込んだ。
あっという間にエーンちゃんの部屋が空になり、実家に帰るんだと言ってエーンちゃんと赤ちゃんはいなくなった。

船越さんがずっと浮気していたのが発覚したからだった。
タイでは掃いて捨てるほどよくある話。だけど、なんとも言えない別れだった。

***

あとがき

結局あの日何をしに船越さんに会いにいったのかよくわからないまま時は過ぎ、バンコクで働くようになった私はあの頃のような人付き合いをすることはなくなってしまった。
きっとどこの国でもそうだけど、都市部と田舎とでは別の国のような気さえする。ぐらい違う。

今も時々あのアパートでの日々を想う。そこにはたくさんの笑顔とHONG THONGがあった。
タイに来てビールもたくさん呑んだけど、アパートの大家さんはウィスキーが大好きでいつもストレートで振舞ってくれた。
具合が悪い時も、バイクに轢かれた時も、「コンイサーン(東北人)はこれで治すんだ。」と言ってお見舞いに来てくれた。
ちなみに私は下戸です。

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私タイで何してるんだろう。
あの頃よく思っていたこと。
でもこれだけは言える。なんだかよくわからないけど楽しかった日々は宝物で、(船越さんはダメな人だったけど)私はタイの人が好きだ。

サポートしていただけたら腰を抜かすと思います。