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見るという行為

見るの前提にあるもの

 見るという行為は、私たちにとってとても重要な行為ではある。しかし、見ているはずなのに、見ていたものを思い出すことができないことがある。
見ていたものを思い出せないときというのは、見えていなかったということでもないだろうか。
いちいち、見ているものをすべて覚えていたらたちまちパンクしてしまう人の方が多いだろう。ということは、見えないというものが前提にあって見るという言葉が存在するのだろうか。

見えているということが前提

 しかし、世の中は見えるという言葉が先にあり見えないという言葉が対義語として位置づけられているように思える。
親子でも、恋人でも、会社の同僚や上司、人々の会話でも見るという行為が前提にあって会話をしている。そのときの会話は「同じ」ものを見ているということが次に前提として存在しており、この同じものを見ているという共通の前提が崩壊するときに、話が途端に難しくなる。見るという行為ができていないときは、見るものを捉えなおすことで、「同じ」ものを見ているという前提を再起させることができるので、そこまで話は難しくない。
話をややこしくさせるのは、「同じ」ものを見ているという錯覚に陥っているときである。この場合は時間の経過と比例してややこしさも複雑になっていき、しまいには人間関係や人間として破綻してしまうことにつながってしまう。

見えていない

 見えないというのが前提にあって見えるというものが成り立つとするならば、人々は見えていないことが前提にあるため、何を見ているのかという「同じ」ものを見ているのかという確認作業が必然的に発生してくるのではないだろうか。そうすれば「私とあなたは「同じ」ものを見ているのでしょうか?」という問いが常に立ち続け、同じというものを確認しあうことができることで、見ていない、錯覚しているという事態を大きく減らすことができるのではないだろうか。
一方で、こんなことをしていたら時間がとてつもなくかかってしまい、生産性や効率性はとてつもなく悪いだろう。確認する相手が1人、2人くらいなら良いが大勢で、しかもモザイクな他者となれば果てしない時間を要することになるだろう。

時間がない

 いろいろと考えていくと、時代の変化というのは、社会の動きが速くなり時間も比例して早くなっていくことではないか。そのような社会では、見えているということをどうしても前提にしなければ、成立しないだろう。そのため「同じ」ものを見ているということが前提になっていく。大勢に同じものを見ているという行為も必要になってきており、学校や本、近代では映像や写真、SNSなどの媒体が同じものを見るという行為を助けているのではないか。

五感

 そうなってくると、私たちは何か偏った感覚で物事を見るようになってしまうのではないだろうか。日常生活の中で、五感をすべて使って生活する機会はどのくらいあるのだろうか。精神でさえも見えるものにしてきているこの時代の中で、見えないものに思いを馳せる時間はあるのだろうか。他人と「同じ」ものを見ているのかという問いを立てて語り合う機会はあるのだろうか。
 効率的で生産性が上がり、社会が豊かになり選択肢は広がっているように見えるが、見えている範囲は狭まってきてはいないだろうか。
 見えないことを前提に五感を使って見るという行為をすることで、時間はかかり効率はとてつもなく悪いかもしれないが、もっと人間同士の交わりは深くなるのではないかと思ってしまう。





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