人の価値は何ができるかではない、何を成し遂げたかでもない【ありのままの自分】
おはようございます。おこめさんです。
急にどうした?ってタイトルですが、
実は最近すこし落ち込むことがあったのです。
土曜日の夜にはじめて大人向けにオンライン哲学対話をやってみたのですが、その運営、進行がうまくいかなったのです。
そのイベント後や、次の日の朝
どうしてうまくいかなかったのか、次にどう改善していけばいいか
そんなことを片っ端から考えていきました。
今では、それもまとまってかなりスッキリした状態になったこともあって、今回のことは失敗ではなく、大事な経験って思えるようになりました。
でも、そうやって振り返りをしている時、一瞬自分のことを「自分なんて」とかって思ってしまうときがあったのです。
それはまわりも自分のことをダメなやつって思ってるんじゃないかなってことにもつながっていたような気がします。
そのときに、ふと頭の中に今日のタイトルのことが浮かんできたんです。
▼「人の価値は何ができるかではない、何を成し遂げたかでもない」
別にオンライン哲学対話の進行がうまくいかなくたって、ぼくの価値は何ひとつ変わってないんだって
逆にそういうことが例えうまかったとして、その結果まわりの人に「すごい!」「〇〇さんのお陰で」って言われたとしても
その人の価値が上がるとかってことでもないんですよね。
これをさらに詰めていくと
お金をたくさん稼げる人→たくさんの人から感謝される人→だから価値のある人
という図式も違うのかなって感じます。
(それはお金をたくさん稼げるようになった人がいうことで説得力があるのであって、今のぼくがこれを言っていてもあんまりしっくりこないような気もしますが)
行為レベルで人の価値が決まるのではなく
存在レベルで価値があるってことです
少し前にあった、津久井やまゆり園での悲惨な事件をおこした犯人も
それに同調してしまう一定の人たちも
人は何ができるかが大切で、それこそが価値の判断基準だって思ってしまっているのだと感じます。
でもこれこそが価値だって思ってしまうような図式が資本主義社会にはあります。
たくさんの人の役に立つことができる人→たくさんのお金を稼げる→価値がある
ですね。
確かに役に立つってことは価値があるって思えることに近いと思います。
だけど、そもそも役に立つかどうかってお金だけでは測れないものです。
そして、資本主義社会になる前から人類は存在していたわけで、
その価値判断は今の世の中だけで通用するものであって、人の価値そのものを判断するには明らかに不完全なものだってことです。
▼どう感じるかの舵は自分が握っている
そもそも人の役に立つっているかどうかを感じるのは、まわりの人ではなく自分自身なんですよね。
(まわりがどう評価しているかではなく、自分がどう感じているか。まわりの評価軸に合わせた生き方は自分のありのままのあり方、生き方からずれてしまう)
そして、どんな人でも必ず世界のための必要な存在です。
自分のまわりの人にはそう思われてないかもと感じたとしても
それは世界の中のごく一部であり、もっと広い視点から見たときに違った見え方があるはずです。
大事なのは
まわりがどう言っているか
を一端置いておいて、自分が世界にとって必要な存在だと思えるかが大事ということです。
少なくともぼくは今回のことをうけて、いろいろと考えることができたし、
そういうことに気がつけたことに感謝したいです。
そしてその気付きを促してくれたのは間違いなく現在進行形で読んでいる
「嫌われる勇気」です。
アドラー心理学、ぐっと引き込まれるものがありますね。
また、この本についてのまとめをどこかで書こうと思います。
今日もここまで読んでくださってありがとうございました。
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https://lit.link/okome800
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そもそも人はそうやって図るものではなくって、
これがすべて
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