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幸せの不感症

今、不安はあるけど不幸ではない状態。

でも、幸せか?と聞かれたら、即答できない。

そんな私は、幸せの不感症なんだろうか。

何をもって幸せと言えるのだろうか

お金がたくさんあること?
有名になること?
美しいこと?
長生きすること?
モテること?
権力を持つこと?
学歴があること?
良い会社に入ること?

何をもって幸せと言えるのだろうか。

誰に証明するのか。

証明することなのか。

私にとっての幸せは

私にとっての幸せは

・好きな人と好きなときに好きな場所で過ごすこと
・自分の好きなことが見つかり仕事にすること
・美味しいものを食べたいと思ったときに食べられること
・好きな時間に眠ること

ざっくり言うならこんな感じ。

今の生活になってから、半分は達成できているから、やっぱり私は幸せかもしれない。

不幸になろうとしなくていい

世間が思う「幸せ」であろうとすればするほど、自分が思う「幸せ」とは遠ざかっていく気がする。

むしろ、あえて不幸ポイントを掘り出しては
「こんなに大変だったんだから幸せであるべきなのよ」
「幸せになる権限あるでしょ」
と言って、幸せの免罪符を貰おうとしている。

不幸の反動で幸せを感じる。

自分から不幸にならなくてもいいんだね。

自分の芝生は青い

「隣の芝生は青く見える」

他人のものがよく見える、という意味。
「あの人より良い」「あの人より悪い」

誰かにとって、私は幸せに見えると思うし
私にとって、誰かは幸せに見える。

この世はないものねだりの連鎖なのである。

他人の尺度で測った幸せは幸せじゃない。

比べることでしか幸せを感じられない私はかわいそうだ。

今日食べるものがある、今日眠る場所がある、お風呂がある、友達がいる、パートナーがいる、家族がいる、仕事がある、生きている。

ささやかだけど、その当たり前が当たり前にできていることがどれだけ幸せなのか、失ってから気づくでしょう。

自分の芝生は、青かったのです。
幸せの青い鳥は、家にいるのです。

比較するなら過去の自分だけ。

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