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【小説】ファムファタールの杯

 ディオンは城内でも指折りの真面目な男であった。無駄なくちは利かず、誘惑になびくこともなく、従順に己が主人に仕える男であった。
 そんな性格を買われた彼は、城主直々の命により『さかずきの世話係』に任じられた。
 何でも城主が手にいれたとある酒杯は、その余りの美しさから多くの争いを生むという。城主が先日とある領地を攻め落としたのも、この杯を手にいれるのが本当の目的であったとまことしやかに囁かれるほどであった。
 雑談の輪にも加わらないようなディオンであっても噂くらいは耳にしていたが、『世話係』とは何事か。城主は多くを語らず、ただ杯の機嫌を損ねず、よくよくもてなせとだけ命じた。

 杯がおさめられた部屋は城のなかでも最も奥まった場所にある。部屋へと続く長い廊下の入口には屈強な兵士が立ち、仏頂面のままディオンを奥へと通した。彼は疑問を抱きつつも、それをおくびにも出さず無表情に歩みを進める。
 廊下には灯りがなく、高く位置した窓から注ぐ日差しだけが光源であった。
 単調な光景と薄暗さに感覚が麻痺してきた頃、やっと肝心の部屋にたどりつく。
 ディオンは城主から預かった鍵を用いて扉を開けた。重たい扉がぎぃと鳴く音が久しぶりに鼓膜を揺すぶる。

 彼はすぐには室内にはいらず、目だけでざっとようすを確認した。
 誰もいない空間に、豪奢な調度品が侵入者を圧するように並んでいる。いったい誰が使うというのか、磨きあげられた鏡やいかにも上等な布で整えられた寝台が置かれ、香でも焚かれているのか甘く華やかな香気が漂っていた。窓がない代わりに壁一面を覆う洒落た意匠は、よく見ると動物と植物と人間が複雑に絡みあっている。
 いかにもかの城主が好みそうな内装をディオンは何の感慨もなく目でなぞった。そして最後に、部屋の中央にぽつねんと置かれた銀色の杯へと視線をやる。
 これが例の杯であろう。

 純銀の酒盃は部屋の灯りを反射してぎらりと煌めきながらも、曲線で構成されたボディはやわらかな印象を抱かせ、さぞかしくちあたりがよいに違いない。表面には王冠が彫られ、蔦薔薇つたばらが絡みついていた。さらにその蔓薔薇が伝うステムは女人の脚のようにすらりとのびやかである。
 芸術には縁遠いディオンであっても、確かに美しいと思う。しかし、それだけだった。
 他人と争ってまで欲しいとは思えない。それとも、己が疎いだけなのだろうか。
 ディオンの疑問に答えるものはなく、また『世話係』としても何をすればいいのかもわからない。
 真面目な性格故に適当にさぼることもできず、彼はさほど汚れていない部屋を整頓して一日目を終えた。

◇◆◇

 それから三日、ディオンは部屋を掃除しつづけた。
 不思議なことに、どこかひとが触れたようなあとがしばしば見られる。例えば、誰かが寝転んだように波打つ寝台のシーツ。かすかに閉まりきっていない抽斗を開ければ、なかにはいっていたものの位置が微妙に変わっている。
 ディオン以外にここに立ちいるとしたら城主であるが、主君は新たに征服した領地に遠征に出ている最中だ。では、ディオンの知らぬ間に誰か他にも出入りしているのだろうか。
 まさか、泥棒ではあるまい。何せ銀の杯は部屋の中央で燦然と光り輝いているのだから。
 小さな違和感を覚えながらも、ディオンはその日も自身の役目を果たすべく、シーツの皺を伸ばし、調度品の表面を乾いた布で拭く。

「ねえ、杯は拭かないの」

 唐突に背後からかけられた声にディオンが勢いよく振り向くと、そこには女が立っていた。
 いつの間に侵入したのだろうか。象牙色の肌に、銀色の長い髪を背に垂らした女は目を伏せたまま微笑む。

「お前は誰だ」
「おや、私の質問に答えるのが先だよ。だって私のほうから尋ねたんだもの」

 拗ねたようなくちぶりで女はそう言った。
 なるほど、一理ある。そう考えたディオンは「それは失礼した」と答えた。

「この杯は俺の主人のものだ。許可なく触れるわけにはいかない」
「お前は律儀な男なのだね。いいよ、私が許可するから拭っておくれ」
「……何をもって許可するのだ」

 もしこの女が城主に親しい者であれば、ディオンは従うべきであろう。しかし、城主に配偶者や姉妹はいないはずだ。それともディオンが知らないだけで、城主には親しい女人がいるのだろうか。
 ディオンが眉を寄せて考えこむと、女は先ほどまで尖らせていた桃色の唇をほころばせ、楽しげに笑い声をあげた。まるで小鳥がさえずるように愛らしい響きをしていて、これまで他人の笑い声に対してそんなふうに思ったことなどなかったディオンはわずかに動揺する。
 そんな彼のようすなど露程にもかまわず、女は悠々と頷いてみせた。

「ええ、そうだよ。あの人間にそんな相手、いやしない」
「では、お前の許可があろうとあの杯には触れられない。主人の許可なく主人のものに触れるわけにはいかないし、それでもし杯の機嫌を損ねては命令に背くことこになる」
「本当に律儀……いや、むしろ頑固者だ」

 目を伏せたまま女は笑みを深め、鷹揚に告げた。

「私こそが杯。さあ、この私の許可が許可するのだから、さっさと拭いなさい」
「そんな世迷いごとを」
「おや、信じられないのか。信じられないというなら私はそれでもよいけれど、その杯が曇れば機嫌を損ねるよ。そしたらお前、命令に背いたことになるのではないか」

 ディオンはたっぷりと沈黙した後、ゆっくりと首を横に振った。

「得体の知れぬ者の言うことを聞くわけにはいかない」
「そうか。では、せいぜい杯が曇っていくのを見守るがいいさ」

 女のしなやかな指がぴしりと銀の杯を示した。その勢いにつられ、ディオンは女から視線を外す。そして再び正面へと向きなおると、女の姿はとうになくなっていたのであった。

 帰り際、見張りの兵士に尋ねても、銀髪の女どころかディオン以外の人間は見てすらいないという。己の仕事の不手際を責められて気分を害した兵士の仏頂面に見送られるようにしてディオンはその場をあとにした。

 翌日、ディオンはいつも通り任された仕事を全うすべく奥の部屋へとはいる。
 部屋の中央には銀の杯が変わらず輝き、寝台には女が退屈そうに寝転んでいた。しどけなく横たわる彼女が身につけた衣服はたっぷりとした純白で、城内で見かける女たちのような極彩色の鮮やかさはない。しかし、ひと目で高級であるとわかる生地が浮かべるやわらかな光沢が、却って女がもって生まれた美しさを際立たせていた。閉じられた瞼のうえで光の粒子が煌めき、唇は熟れた果実が滴るように色づいている。
 ふいに女が寝返りを打ち、幾重にも重なった布のしたから、すらりとしなやかな脚が覗いた。象牙色の滑らかな肌のうえに、蔦薔薇が絡みついている。
 ディオンが出入口で木偶の棒のように突っ立っていると、女の唇が緩やかに弧を描いた。

「やあ。昨日ぶりだね」
「……お前、本当にこの杯なのか」

 眩暈でも起こしたときの浮遊感を覚えながら、ディオンは呻くように問う。

「そうだよ、私こそが銀の杯」

 ふふ、と女の唇から可憐な笑声が漏れ、銀色の髪がしゃらりと流れる。伏せた睫毛も銀に煌めき、薔薇色のまろい頬に淡い影を落としていた。

「人間たちが喉から手が出るほどに欲しがる杯だよ」
「……そうか。では俺はお前の世話をすればよいのだな」
「その通り。そうだね、手はじめに絹の布で私を拭っておくれ」
「任された」

 ディオンが清潔な布で杯を拭くと、女は寝台に寝転がったまま機嫌よく微笑んでいた。目は相変わらず伏せたままだが、甘美に色づく唇が三日月の形を描いている。
 丁寧に丁寧に拭った銀の杯はディオンの生真面目な顔をよく映した。杯はやはり美しい造形をしていたが、やはり彼には命を賭してまで欲しいとは思えなかった。
 城主はまだ帰ってこない。相当激しい戦いだったらしいので、事後処理に時間がかかっているのかもしれない。

「ねえ、退屈なんだ。何か話を聞かせておくれよ」

 杯をあらためたディオンがいつものように周囲の掃除をしていると、寝台に寝そべった女が声をあげた。蔓薔薇の絡みついた脚をあらわにさせる姿は婀娜あだっぽいが、「ねえ、ねえ」とねだるさまは子供のようである。

「俺は面白い話なんかできないぞ」
「ここで寝転がっているより退屈なことなんてないよ」

 しばしの沈黙の後、ディオンは渋々といったていで掃除の手をとめ、適当な椅子に腰かけた。

「何を話せばいい」
「そうだね……じゃあ、この街のこと」

 ディオンの語りは決してうまいものではなかったが、女は興味深そうに耳を傾けた。
 そしてひとつ話終えると、ほかにはと乞われる。女の乞うままに話していると、いつの間にか彼にしては随分と喋るはめになっていた。心なしか舌がくたびれているような気さえする。

「いいな、楽しそう。私も行ってみたい」
「お前を連れ出すわけにはいかない。もてなせと言われたが、部屋から出してはならないとも命じられているんだ」
「わかっているよ」

 女はつまらなそうに頷いた。

「……また話をしてやる。だから、それで我慢しろ」

 あの堅物で、仲間との飲み会も断るような男がいったいどうしたことだろう。ディオン自身、今しがた自分が言った言葉に驚いたが、嬉しそうに微笑む女を前に撤回するわけにもいかず、彼にしては珍しく曖昧な態度で約束したのだった。

◇◆◇

 なかなか城主は戻ってこず、その間もディオンは己に課せられた仕事を律儀にこなした。杯を磨き、部屋を整え、女にせがまれるたびに街や城内の話をしてやる。
 その日も、女は目を伏せたまま、あれやこれやとディオンに話をさせていた。長く艶やかな銀色の髪は寝台に扇のように広がり、手足はしどけなく投げ出されている。

「城主の生誕日が近いから、市場も盛りあがっている。とはいえ、まだ主人が戻ってこないのだが」
「市場には酒やご馳走が並んでいるのかい」
「ああ、そうだな。生誕日と新年はよい酒が並ぶ。香りも味も極上だ」
「羨ましい話だ」
「お前自身は飲み食いしないが、羨ましいとは思うのか」

 ディオンの疑問を女は鼻で笑った。

「飲み食いはできないが、よい酒は魅力的さ。是非とも私の杯をその極上の酒で満たして欲しいものだよ」

 男は銀色の杯を見た。毎日彼に磨かれる杯は曇りひとつなく輝いている。

「……そうだな。あれに注げば、さらに至高の酒となるだろう」
「お前もそう思うだろう」

 だが、と寝そべっていた女がゆっくりと上半身を起こす。銀の髪が光を弾きながら、さらりと彼女の肩を流れる。

「私の杯を満たすのは美酒なんかじゃない。生臭い人間の血だ」

 女の足が床におろされる。衣擦れの音とともに、象牙色の手がディオンのほうへと伸びる。

「私を満たすのは、私を求め、争い流れる血なんだよ」

 女が閉じていた目を開いた。思わず息を呑む。
 赤だ。
 吸いこまれるような赤だった。銀の杯を求め、流れた血の色だった。

「皆が私に惚れ、その手に欲しがる。私の美しさに溺れる」

 女の手が、ディオンの頬に触れる。それは彼の肌に馴染むようにやわらかく、思わず頬擦りしたくなるような心地のよさをしていた。
 しかし、女の浮かべる表情には苦悶が滲んでいる。

「私はそんな称賛など、望んでいないのに」

 甘露な美酒を注ぎ、まろやかな味を楽しみ、ただ静かに愛でて欲しいだけなのに。

 赤く輝く瞳が揺れ、たまった水が薔薇色の頬を落ちていった。形のよい眉が悩ましげに歪み、こぼれる吐息は切実な青を帯びている。
 咄嗟に頬を包む甘やかな手を振りほどこうとしたが、全身が痺れたように言うことを利かず、指の先すら動かせなかった。

「ディオン……私をここから連れ出しておくれよ」

 名を呼ばれ、脳みそが震えるような感覚がした。
 無理やりに己の瞼を閉じて女を遮る。だが耳元に彼女の息遣いを感じる。

「駄目だ。杯は城主のものだ」

 ディオン。ディオン。

 女が繰り返し男の名前を呼ぶ。彼女の声が耳朶を撫でるたび、しこたま酒を飲んだときのようにくらりとする。

「私を開放しておくれよ」

 細い指が彼の目の周りをなぞる。

「このまま私がここにいては、また争いが生まれる。また人間が死ぬ」

 間近で赤く濡れた双眸が揺らめく。銀色の睫毛の先についた涙が朝露のように光っている。
 かたく閉じていたはずの目で、ディオンは女を見ていた。

「もう、血にまみれた手に握られたくはないのに……」
「…………」
「ディオン……」

 男はもう一度目を閉じた。
 深く息を吸い、重く吐き出す。
 再び開いた両目で、しっかりと女を捉える。

「…………わかった」

 女が瞠目し、そして笑んだ。

◇◆◇

 ひとりの男とひとつの杯が城から消えた。
 愚直で従順な男の失踪に人々は驚き、さまざまな噂が立った。

 曰く、杯を盗んだはいいものの、城の衛兵によってとうに殺され、死体は秘密裏に処理されたのだ。
 曰く、そもそもあの男は間者で、まんまと杯をもって逃げおおせ余所の国で悠々と暮らしているのだ。
 曰く、あんなに真面目な男が主と職務を投げ出すわけがない。魔女にたぶらかされ、魂ごと喰われてしまったのだ。

 しかし、男の行方はとんと知れず、次第にその名も、ともに失せた杯のことも忘れられていった。
 ただひとつ確かなことがあるとすれば、人間たちの争いは今も各地で絶えず起こっている。それだけであった。

<終>


最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。

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