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【小説】アダムとアダムと線香花火

 黄昏に、ぽつりと人影がひとつ。
 制服のワイシャツとは違う白を着たそれは、ふらふらと海のほうへ向かっていく。

「先輩、」

 居ても立っても居られず、僕は寮を飛び出した。三階から一気に駆けおりて、日が落ちかけてきてもまだ暑く、湿った空気につっこむ。
 薄暗闇に溶けかけた背に追いつこうとがむしゃらに足を動かした。適当に履いたスニーカーの靴底で、細かな砂がざりざりと擦れる。

「先輩っ」

 先を歩いていた人影が、くるりと振り向く。
 群青の雲が薄く広がる桃色の空のしたで僕を捉えた両の目が、あやしく光っているような気がした。

「久坂部か」

 はあ、と息を整えている僕の旋毛を見おろしながら、先輩はにやりと笑った。白地にシンプルなロゴがはいっただけのシャツが妙に涼しげだ。
 僕はといえば、たいした距離を走ったわけではないのに、じんわりと汗を滲ませていた。前髪をかきあげると手が汗で濡れ、反射的にシャツの裾で拭う。

「先輩、どこ行くんですか」

 んー、と猫のようにのんびりと目を細めた先輩は「海」と言った。

「これ、やろうかと思って。久坂部も来る?」

 先輩が片手にさげていたブリキのバケツを傾けて、僕もそれを覗きこむ。

「……線香花火、ですか」

 派手な色合いのパッケージで、線香花火と記したフォントすら陽気に浮かれていた。丸い窓の部分からは、こより状の花火が見えている。

「どうしたんですか、これ」
「あー、まあ、百均にあったやつ」
「……盗ってきたんですか」
「人聞きが悪ぃな。どうせ金を払う先もねぇんだから」

 行くの、行かないの。
 先輩の問いかけに、僕は慌ててこくりと頷いた。
 たったひとりで、あの静かな寮に残されるのはごめんだった。



 ざらついた波音が鼓膜を震わせる。
 空の色を映して藍と朱が混じる海に、波が金色の線を描く。
 僕らのほかに誰もいない海はぞっとするほど広かった。
 潮のねっとりとしたにおいが全身にまとわりつき、剥き出しになった己の腕を擦る。

「どした?」
「いえ、何でも……」

 バケツに海水を組んだ先輩が戻ってくる。足元はビーチサンダルだった。

「ほれ」

 線香花火を一本差し出され、無言で受け取る。
 本当にするのか、と和紙をよってできた花火を見つめた。なんとなく、花火をやるだなんて冗談ではないかと思っていたのだ。

「やり方、わかる?」

 花火を見つめたまま固まっていたせいか、先輩が少し屈むようにして顔を覗きこんできた。バスケ部のエースだった先輩は背が高く、僕と並ぶとそれなりに身長差が生まれる。僕だって特別小柄なわけではないはずなのだけれど。
 まっすぐな視線を向ける瞳は限りなく黒に近い色をしていて、今度は猫ではなく、かつて実家で飼っていた犬を思い出させた。ひと懐こくて誰にでも尾を振るような、番犬には向いていない犬だった。

「久坂部?」
「あ、えっと……たぶん、わかります」
「ほんとかよ」

 何が楽しいのか、先輩は笑いながらその場にしゃがんだ。そしてどこからか取り出したライターを着火させる。少しもたついたその仕草から、先輩も火の扱いには慣れていないのかもしれない、などと思う。

 先輩はオレンジの小さな火を花火の先へと近づけた。海風に震える火がちろちろと花火の先を舐め、じきに燃え移る。
 火薬の詰まった和紙の先端はじりじりと燃えていき、まあるい火球となった。火薬の燃えるにおいと白い煙が立ちのぼり、濃いオレンジに発光する火球の周りでぱりぱりと小さな火花が弾けはじめる。
 炭酸が水中で弾けるようだと眺めていたら、途端にばちっと激しい音を立てて次々に火花を飛び散らせた。
 思わずたじろぐと、先輩が吹き出す。その振動で、火花を散らしていた線香花火がぼとりと落ちた。

「あーあ……何、ビビったの?」

 燃え尽きた花火がバケツに放りこまれる。

「久しぶりだったから少し驚いただけです……」
「そ?」

 二本目の線香花火に火をつけようと、先輩がライターを着火させた。すでにコツを掴んだのか、最初のようなもたつきはない。まるで前々から使いこなしていましたよ、とでも言わんばかりの手つきだった。
 ゆらり、と不安定に揺れる灯火から目を離せなくなる。ぼんやりとした闇に耀く炎が網膜に焼きついてしまいそうだ。でも、囚われた視線をずらすことができない。単調な波の音と、危うげに揺らめく灯火と、砂ばかりの心許ない地面と――

「火ぃ、怖いの?」

 不意にかけられた言葉に肩が跳ねる。
 ひゅっと息を吸いこめば濃厚な潮のにおいが鼻をつく。気づかないうちに、呼吸が浅くなっていたらしい。

「……火を怖いと思うのは本能的なものだから、平気なほうがおかしいと思います」
「久坂部って、おとなしそうなくせして結構言うよな」

 だだっ広い砂浜に笑い声が響いた。先輩の手のなかで、ライターの火までが笑うように揺れている。
 先輩とまともに会話をするようになったのはつい最近のことで、まだリズムが掴めなかった。いかにも体育会系で陽キャの先輩と、教室の隅で息を潜める陰キャの僕とではあまりにも性格が真逆すぎる。本来なら、たとえ同じ寮で暮らしていたとしても、ふたつも学年が違うし、性格の方向性も違うのだから、係でも同じにならない限り話す機会などなかったのに。

「久坂部、」

 笑いが落ち着いた先輩が顎で僕の持っていた花火を示す。同時にライターを差し出してきたので、火をつけろ、ということらしい。
 火薬の詰まった部分のうえをきゅっとねじると、先輩が首を傾げた。

「何してんだ?」
「え、ああ、こうすると長持ちするらしいです……昔、父がやっていて、つい」

 ふうん、と気の抜けた相槌を打ちながらも、先輩はじっと僕の手許を見つめていた。その黒い瞳にライターの火が映って、ちらちらと瞬いている。
 ほら、と火を差し出され、恐る恐る花火の先を近づける。
 波音に混じって、じりじりと焼ける音がした。
 さっき先輩の持っていた花火がそうであったように、白い煙が細く立ち、ぷくりと丸い火の玉ができる。ぱちっぱちっと短い火花を放っていたかと思うと、ぱっと強く光って朱や金が爆ぜた。少し怯んでしまうくらいに激しく、しかし生まれた端から消えていく儚い花が夕暮れの浜辺に咲き乱れる。

 先輩も自分の持っていた分に火をつけたようで、ぱちぱちと火花を飛ばしはじめた。
 隣の花火の勢いが増すのと反比例するように、僕の持っている花火は終わりへと近づいていく。息つく暇なく咲いていた花の数が減って、花弁が一枚一枚散るような燃え方が変わった。
 手が震え、火球が金色の花弁を散らしながら落下する。途端、夜の気配を含んだ薄闇が、とぷんとのしかかってきた。
 先輩の花火だけが眩しく光を放っている。こんなにちから強く、熱く輝いているのに、どうしようもないほどに頼りない光。

「次のやつ、やっていいぜ。ほら、ライター」

 言われるがままに使い捨てライターで火をつけようとしたけれど、うまくいかない。先輩がやっていたように部品を押しているはずなのに。

「つかねぇ? そこをスライドさせるようにさ……そうそう、グッとちからいれて。思ってるよりちからいるから、それ」
「わ、」

 見兼ねた先輩に教えられた通り、ぐっとちからをこめて部品を押すと小さな火の手があかった。驚いて指を放すと火はすぐに消え、先輩がまた笑う。

「んなビビんなよ。どうせ火傷したって冷たい水ならたっぷりあるんだしさ」
「いや、塩水じゃ駄目ですよ、たぶん」

 きっとめちゃくちゃ染みると思う。先輩は、それもそうか、とからりと笑った。

「慣れだよ、慣れ」
「はあ……」

 二度三度とつけるうちになんとか火を灯すことはできるようになったけれど、先輩みたいにスマートにこなすことができない。単純にちからの差か、もっと根本的なセンスの差なのか。
 たった二年の差しかないはずなのに、先輩はひどく大人びて見えるときがあった。寮で仲の良いひとたちと騒いでるときや僕をからかうときは子供っぽいくせに、ふとしたときに浮かべる横顔の寡黙さは少し近づきがたい雰囲気すらあるのだ。あれがニヒルというやつなんだろうか。刹那的な輝きに照らされる表情もまた、漠然と距離を感じさせるようなものであった。

 たいした会話もなく、淡々と線香花火を消費していく。なかなか最後まで火球を保つことができず、いくつもの火種か火花を散らしながら砂浜に落ちた。引いては寄せる波と爆ぜる火花の音に鼓膜がじんわりと痺れてしまいそうだ。

「……先輩は、もっと派手なやつが好きだと思ってました」

 ロケット花火とか、色が変わるやつとか、と続けると、火の色に揺らめく先輩の目が細くなった。

「ああいうのは、大勢で騒いでこそだろ」
「そう……ですね」

 寮のほうを振り返りかけ、やめる。
 背後の街はただ静かに横たわり、僕たち以外に動く人影はないのだ。
 皆、眠っている。



 その日も、いつも通りの朝が来るはずだったのだ。
 朝食の時間になっても起きてこない寮生が数名。どれだけ強く揺さぶっても、彼らは目覚めない。まるでよい夢でも見ているような、穏やかな寝顔だった。
 登校すると空いている席がいくつかあり、どうやら彼らも眠ったままなのだという。どうやら寮だけではなく、街でも、街の外でもそれは起こっていて、SNSで検索するとちらほらと同じ情報が出てきた。
 翌日になるとまた眠ったまま起きないひとたちが増えて、さらに翌日にはもっと増えた。眠りが広まるのはあっという間だった。

 原因はわからない。何故なら、そうした問題に立ち向かうべき役割の大人たちまで眠ってしまったから。謎の奇病だとか、どこかの国が秘密裏に開発していた兵器が漏れたのだとか、地球侵略を目論む宇宙人の仕業だとか、大真面目に、あるいはふざけて賑わっていたインターネットもすっかり静かになってしまった。だって皆眠ってしまったのだから。
 もっと早く行動していれば実家に帰れたかもしれない。一度、母さんのほうから安否確認の電話をかけてきたのに出て、それっきりだ。もう電話をしても誰も出ないし、交通機関も機能していないから直接会いに行くこともできない。インターネットはまだつながるけれど、ほとんど更新されないSNSのタイムラインを眺めるのが苦痛になって見るのをやめてしまった。
 今、自分以外の人間といえば僕はもう先輩しかいないのだ。

 こんなことにでもならなければ、ろくに会話もしなかっただろう先輩は随分と熱心に弾ける花火を眺めていた。勢いが徐々に衰えていき、はらり、ひらりと本物の花弁が舞い散るように火花が光る。しかし、火球は花弁を散らしきる前にほとりと落ちた。

「あー、また駄目だった」

 燃え尽きた花火をバケツに放り、次の花火をパッケージから出そうとして、「暗いな」と呟く。言われてみれば、たしかに地平線に赤を滲ませるばかりの空はもうすっかり夜のそれだった。闇色の海がうぞうぞと波立つ。
 先輩がつけた懐中電灯の白っぽい光が辺りを照らした。準備がいいな、と思ううちに、先輩はまた花火に火をつける。
 刹那の花が咲く音は、やっぱり炭酸の泡が弾ける音に似ていた。
 潮騒と火花の弾ける音ばかりの沈黙に耐えきれなくて、慣れない雑談の種を探す。

「……線香花火の燃え方って、ひとの人生に例えられるらしいですよ」
「へえ?」

 濃い火薬のにおいが漂うなか、語尾のあがった相槌は続きを求めているようだった。慌ててうろ覚えの記憶をあさる。

「たしか……線香花火の最初は控えめで、だんだん激しくなっていって、それからまた静かになっていくようすが、それっぽいって話だったかと……」
「ああ、なるほどな。俺、さっきから人生全うさせてやれてねぇけど」

 ほとり、と火球が火花を中途半端にまき散らしながら砂に落ちる。確かに僕も先輩も、一度も花火を最後の最後まで燃やしきることができていなかった。
 花火の灯りが尽きると夜が膨張する。たった一本の懐中電灯では太刀打ちできない、圧倒的な夜。
 火薬のにおいが心臓の裏側を撫でるから、無性に帰りたくて仕方なくなる。でもどこに帰ればいいのだろう。背後にあるのは、自動で点灯する街路灯以外の光がない街だ。あの暗い静寂に包まれた街で、大人も子供も眠っている。穏やかに、昏々と、深い微睡みに沈んでいる。

「……先輩、あの」
「ん?」

 言いあぐねていると、先輩が「何だよ」と急かしてきた。自分の砂だらけになっているであろう足元も視認できないような暗がりで、先輩の視線をひしひしと感じる。乾いた唇を舐めると塩の味がした。

「……先輩、僕より早く眠らないでくださいね」

 ふ、と笑う気配がした。

「先輩!」

 笑いごとじゃないんですよ、と言っても、肩を震わせているのが伝わってくる。

「ごめんごめん。なあ、何で? 俺まで寝ちまったらさみしい?」
「そりゃあ……」

 今さら恥ずかしくなってきて曖昧に頷くにとどめる。大人でもないけれど、小さな子供でもないのだから、普段だったら絶対にこんなふうに他人に甘えたりなどしないのに。
 でも、朝起きてルームメイトが目覚めなかったときの不安やいつも一緒に朝食をとっていた友人がいないのだと気がついたときの衝撃を、どう誤魔化せるというのだろう。この感情を先輩にぶつけたって仕方ないのはわかっているけれど、ひとりで抱えるには大きすぎた。

「まだわかんねぇじゃん。明日になったら皆ひょっこり起き出すかもしんねぇ」
「……ほんとにそう思ってます?」
「…………」

 際立つ波の音に、ああ余計なことを言ってしまった、と思う。後悔、まではしないけれど。

 眠ってしまったひとたちの呼吸や脈は、だんだんと遅くなっていく。まだ、生きている。でも、きっと、このまま緩やかに終わるのだ。自分が死んだのだと気づけないほどにゆっくりと、緩慢に、終わりを迎えるのだ。
 目前の海はぬらぬらと黒く、揺蕩っている。人類の行く末など素知らぬ顔で、夜空と溶けあう。
 夜が来るのが怖かった。街の暗がりが、もう僕らしかいないのだと容赦なくつきつけるから。

 自分で作り出した沈黙だというのに落ち着かなかった。身じろぐと、からだのしたでざらりと湿った砂が鳴る。

「……もう、起きてる人間って僕たちしかいないんでしょうか」
「どうだろうなあ」

 返ってきた声の軽い調子に、少しだけ安心する。

「久坂部とふたりっきりかあ」
「僕とじゃ不満ですか? 選択の余地なんかないですけど」
「不満なんかねぇよ。生意気だけど可愛い後輩だよ、久坂部は。でもさ、」

 ふふ、とまた先輩のくちから笑いが漏れる。

「アダムとアダムじゃなあ」

 なんか格好つかねぇよ、と言ってやっぱり先輩は笑うのだった。

「……そうですね」

 僕も先輩を真似て笑ってみる。
 途方もなく広い海辺に、ふたりぶんの笑い声。心許なさはずっとからだの底のほうでわだかまっているけれど、ほんの少し何かが軽くなったような気がした。

「お、最後の一本」

 先輩はそう言うと、僕に花火を差し出した。

「え……いや、先輩どうぞ」
「いいって。俺のが多くやってるし」
「でも、先輩がやろうって言ったんですし……」
「いいから、いいから。ほれ」

 有無を言わさず、手に最後の花火を押しつけられる。汗と潮風にうっすらと湿った肌に触れる、かさついた紙の感触。返そうとしたけれど、先輩の手にはもうライターが握られていた。カチッという音がしたかと思うと、ゆらりと火が立つ。
 火薬の詰まった先端をぐっとねじってから火に近づけた。じりり、と燃え、硝煙が濃くかおる。
 僕と先輩が息を詰めて見守るなか、火はぷくりと球になった。生まれたばかりの火球が細かな火花を散らす。ぱちぱちと飛び散る花弁は量と勢いを増して煌めく。

 線香花火に、空を彩る打ち上げ花火や色が変わる手持ち花火のような派手さはない。粛々と流星のような火の粉をばらまき、暗がりの一角を照らしだす。懸命に限られた命を燃やしているようで、どこか健気ですらあった。それを見ているのは、僕と先輩しかいないのに。
 こんなに暑く、じめじめとしているのに、ぞわりと寒気に似たものが足元から背へと駆け抜けた。

「……せんぱい、」

 ほとり、と光る花弁をまき散らしながら、火球が砂へと落下した。じう、と最期に鳴く。
 潮騒のざらざらとした響きが耳を撫で、米神から汗が伝う。

「残念だったな」

 先輩の表情は宵闇に沈んで見えなかった。

<終>


最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。


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