【小説】饒舌な犬
「俺の今生の主人は随分と若いのだな」
犬はわたしを見おろしてそう言った。
嘲笑うでも、憐れむでもなく、ただ事実を述べただけといった調子であった。
「急なことでしたからね」
先代当主が亡くなってから、三度月が廻った。
最初の継承権をもつ者は先代の存命中に権利を辞退し、すでに一族から離籍している。二番目と三番目は跡目を争った挙句共倒れし、四番目は病を得てから年々からだが弱くなったせいで勤めを果たすことができない。そうやって当主の座は移ろい、気がつけばわたしの手にあった。
幼い頃から受けた教育のため、作法も勤めもわかっている。しかし、わたしにとって当主の椅子は遥か遠く、己には関係ないことだと思っていた。何かあったときの予備として、人目を避けるように用意された屋敷でひとり、蔵書に埋もれて生涯をすごすつもりだったのだ。
世界で唯一わたしが当主になることを望んでいただろう母も、すでにこの世のひとではない。
少しでも身じろぐと純白の羽織がさらりと擦れ、その度に焚きこめられた香がイグサのにおいに重なった。真昼に浮かぶ月の明かりを写し取った丈の長い羽織は代々当主が継ぐもののひとつである。しっかりと織られた布地は羽根のように軽く、しかしわたしの肩にはずしりと重かった。
ずっとおろしていた長い髪は高い位置で編みこまれていて、さらされた項の寒さに思わず手をあてる。動いた拍子に、髪に絡めた金の簪がしゃらりと可憐な音を立てた。
当主となったわたしを美しく着飾る上質な品々。わたしを過大に装い、一族の頂点へと仕立てあげるものたち。
「そんなもの、すぐに慣れるさ」
軽い口調で犬が言う。よく訓練された犬だ。わたしの一挙手一投足から心のうちの変化までよく見ている。
気が重く、それは大きな溜め息となって宙にとけた。どうせ犬相手に隠すことなどできないし、隠す意味もない。
「そう気負うこともないだろう。堂々としてりゃ案外なんとかなるもんだ」
にやりと犬が口角をあげた。軽薄そうな笑みだが目つきは鋭く、まっすぐにわたしを射貫く。
「……よく喋る犬ですね。先代の犬は無口でしたけど」
「犬だって主人の前なら饒舌になるもんだ」
「そういうものなのですか」
「さあな。あれはよくできた犬だったから」
先代の犬の物静かな顔を思い浮かべる。先代の傍らに控えた気配は影のようでありながら、一分の隙もなく周囲を捉えていた。まだ小さな子供だった頃のわたしは、あの物静かで鋭利な雰囲気をまとった犬が怖かったものだ。
そんな先代の犬とわたしの犬とでは、雰囲気がまるで異なる。静と動、共通するのは五分も透かぬ鋭さだけ。
多少言動が軽くとも当主の犬なのだから、優秀な犬のはずだ。わたしが選んだというていにはなっているが、実際には年寄りどもが決めた犬である。おそらく彼らに都合がよいと選ばれた犬に、個人的な愛着などない。
何より、犬自身がわたしを主と認めているかはわからない。だが、まことの忠誠心がなくても傍に控えることはできる。犬とはそういうふうに躾けられているものなのだ。
「主人、屋敷の東側の庭園に沈丁花があるのは知っているか」
急な話に首を傾げると、また頭上の装飾品たちがしゃらりと鳴った。
「……いいえ。まだあまり屋敷を見てはいないので」
「そうか。確かにあちらの庭園は当主のためのものだからな。当主になったばかりのあんたが行ったことがないのも頷ける。せっかくだから今度見に行こうぜ」
「また随分と地味な花を勧めますね」
「花は地味でも香りは一級品だそうだ。それに、あんたは華美なものをあまり好まないだろう。香りが嫌でなければ行こう」
「……そんな暇、あるでしょうか」
「では今すぐ行こうか。屋敷のなかも、時間があるうちに探検しようぜ」
犬はきゅうっと目を細めた。そうすると、妙にひと懐こい、悪戯小僧みたいな顔つきになる。
「……おまえは本当によく喋る犬ですね」
返事の代わりにそう言えば、犬が声をあげて笑った。
「そうやって肩にちからがはいってちゃあ、疲れちまうからな」
犬の視線は相変わらずまっすぐにわたしに定められていた。怖いくらいに、まっすぐに。
「俺が、主人を守るから。この先ずっと、あんたが当主であるかぎり」
当主の座を降りるとしたら、それは死ぬときだ。この犬は、生涯わたしを守ると言っているのだった。
「……それは就任の儀で聞きました。何度も言わなくても、犬であれば当然の務めです」
「ああ、そうだな」
どれだけわたしが素気なく言い捨てても、犬はわたしだけを見つめていた。
一直線で痛いくらいの光にどうしてよいかわからず、わたしは自身の顔をそっと伏せる。そうやって逸らしても、犬のあの鋭い一対の瞳はわたしを捉えたまま離さないのだと本当はわかっていた。
***
犬が饒舌になるのはわたしとふたりきりのときだけであった。
他人の目があるところであれば、犬は研ぎ澄まされた沈黙をまとってわたしの後ろに控える。
その日も、犬は静かにわたしの背後に立っていた。
広い室内の壁際にはほかの使用人もずらりと並び、たかが食事を摂るだけだというのに大袈裟なことである。
目の前に皿が置かれていく。
出される料理は昔食べていたものとは比べものにならないほどに上質な材料が使われ、見た目も美しく品がよい。当主のものは、身につけるものも、くちにするものも一級品でなければならないらしい。
犬が吠えたのはスープの皿が置かれようとしたときだった。
その場にいた者、皆が驚いて動きをとめるなかで犬だけがわたしを庇うように前に出る。
「毒だ」
犬は短くそれだけ言うとぐるりと周囲を見渡し、「あいつだ」と言い放った。
使用人たちが弾かれたように犬の示す方向へ駆け出し、逃げようとした者を押さえつける。捕らえられた者もまた使用人の服装をしていたが、見覚えのない顔であった。とはいえ使用人の数など多すぎて、認識している顔のほうが少ないのだが。
眼下にあるスープは澄んだ琥珀色をしていて、表面にはうっすらと油の輪が浮かび、賽の目に切られた小さな肉や野菜が沈んでいる。今もあたたかな湯気を立て、美味しそうな香りを漂わせているというのに、これには毒が含まれているらしい。犬がそういうのだから、そうなのだろう。
「主人」
犬に呼ばれ、琥珀の水面から顔をあげる。犬はいつものように、まっすぐにわたしを見ていたのですぐに視線がぶつかった。
「主人はご気分が優れない。部屋へ戻る」
端的に言った犬の先導され、慌しく動き回る彼らの合間を縫って廊下へと抜ける。
屋敷の廊下は長く、庭に面した窓からは白っぽい日射しが注いでいた。はためく羽織の裾がきらきらと光り、朝でもないのに時告げ鳥が鳴いている。
犬はぼんやりとしたわたしを私室まで送り、椅子へと座らせた。
当主へあてがわれる部屋は広く、なかなか馴染むことができない。でも、わたしに与えられた私的な空間はここしかなかった。
わたしたちが部屋に戻ってすぐに飲み物が運ばれてきた。運んできた使用人をさがらせ、犬が自ら杯に注いでひとくち飲む。
しばらくの沈黙のあと、犬は「飲むか」と手にした杯を差し出した。
犬の気遣いを、緩く首を振るだけで断る。花のようなやわらかな香りがする瑠璃色の茶はわたしの気にいりだったが、それを楽しめるような気分ではなかった。
「そうか」
犬は無理強いはせず、杯を卓へと置いた。
もしこの茶に毒が仕込まれていたら、犬がわたしの身代わりになっていたのか。いや、犬ならば大抵の毒に耐性があるし、そもそもくちにする前に毒が盛られていると気づくだろう。先ほどのスープのように。犬たちが毒の耐性をもつのは当然主を守るためであり、つまりわたしがあのような場面で毒を盛られるのを阻止するためで、何故ならわたしが毒を摂取すれば最悪死――
「主人、主人」
犬はわたしの前に跪くと、膝のうえにのせるだけになっていたわたしの手に自身の手を重ねた。筋張った手は大きく、わたしのまだ未熟で柔い手などすっぽりと隠れてしまう。
「驚いたな。でももう大丈夫だからな。もう、あんたが心配するようなことはないからな」
わたしは重なった手に目を落としたまま、再び首を振った。
命を狙われるのははじめてではない。当主になる可能性がわずかでもあるというだけで、狙われるには十分な理由になるのだ。
「じゃあ、あんたは何に怯えているんだ」
教えてくれと、犬が乞う。
包むように重ねられた手のぬくもりに、犬の感情がのっているようであった。
「……芍薬の花が、あるでしょう」
この屋敷の庭には様々な植物が植わっているが、そのなかでも芍薬は特別な花であった。ここの芍薬は燎火のように鮮やかな赤と、淡雪のように清らかな白い花を咲かせる。死者の魂はその赤い花を灯りに、白い花を道標に黄泉路を辿るのだ。
だから我々の一族は芍薬をどの植物よりも尊ぶ。死ねば崩れた亡骸を庭に撒き、後世の標となるのだ。
「先代は、骨の一片も残さず逝ってしまいました」
亡骸の代わりに棺に納められたのは石楠花がひと枝に朱墨で呪いが書かれた札に、先代が愛用していた紫紺の羽織紐だった。庭に撒かれたのも、それらを棺ごと燃やした灰である。
「わたしが死んだとき、標になるものはあるのでしょうか」
先代が亡くなって以来、まだ芍薬は一度も咲いていなかった。時期が来れば咲くでしょうと年寄り連中は言う。あたたかな季節になれば、例年通り赤と白の見事な花を咲かせるはずだ、と。
本当にそうだろうか。庭に撒いたのは朽ちた肉と骨の代用にすぎないのに。
「志半ばで死んだ母も、迎えに来てはくれないでしょう」
黄泉路は屋敷の廊下なんかよりもずっと長く、昏いという。だから道標が必要なのだ。
「わたしは……黄泉をひとりで逝くのが怖いのです」
みっともなく声帯が痙攣し、吐息となってこぼれる。
死、そのものは怖くなかった。幼い頃からひとりであるわたしにとって、死は誰よりも何よりも近くにあるものだったから。
でも、途方のない暗がりをひとり逝かねばならぬのは怖かった。こうして息をしている今ひとりでいることは平気なのに、黄泉をひとりで逝くことだけは不思議と怖くて仕方がないのだ。
「大丈夫だ、主人。そんなものを恐れることはない。あんたの黄泉路には俺がともをするのだから」
はっとして顔をあげた先で、犬が笑っていた。
「先代の犬は知らないが、俺はあんたについていくよ。一時だって待たせるものか」
先代の葬儀の日、先代の犬は能面のような表情で棺を見つめていた。先代の亡骸などはいっていない棺を、食い入るようにじっと見ていた。
その犬は、次の犬の選定を見届けたあと暇を取ると行方をくらました。今となっては、生きているのか死んでいるのかもわからない。
「……どうして……」
思わずそう呟けば、犬はわたしの右手をもちあげて自身の頬へと触れさせた。張りのある肌は手と同じくあたたかい。
「犬にとって、主は生涯ただひとり。俺にとって、主人はあんただけだ」
痛いくらいにひたむきなくせに、母にも父にも向けられたことがないようなやわらかい眼差しをして犬が言う。
「俺の耳も、声も、心もあんたのものだ。たとえ死者となり、魂だけになってもそれは変わらない」
犬の言葉が耳朶を撫で、震えが走った。
嗚呼、なんという献身だろう。
一途に、一方的に捧げられる忠誠心。
わたしの命令ひとつで、どうにでもなってしまう犬。
だって、犬はそう振舞うよう、躾けられているのだ。
そうわかっていても、清らかな湖水のような瞳を向けられて震えがとまらない。
歴代の当主たちも皆、この忠誠を受けいれてきたというのか。
「主人、そんな顔をするな。あんたが望むなら俺が喰ってやる。あんたの憂いも、害するものもすべて」
閉め切った部屋は静かで、犬の声がよく通った。頬に添えられた手は解放される気配がない。
「……いちいちそんなことしていたら、腹八分目では済みませんよ」
わたしがそう言うと、犬はいっそう笑みを深くした。
「いくらでも喰ってやるさ。俺はあんたの犬だからな」
いっそう強く、手に頬を押しつけられる。まるで仔犬がじゃれついているようでありながら、大人がわが子を甘やかすような趣もあった。
このちから強さも、熱も、わたしに奉げられたものだ。そう思ったら胸が絞られるように痛んで、何も言えなくなってしまった。
「恐れるな、主人。俺は、俺だけはつねにあんたとともにあるのだから」
よく喋るわたしの犬はそう告げると、眩しそうに両の目を細めた。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。
同一世界のお話。
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