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【小説】河の童

胡瓜きゅうりが巻かれているから河童巻きっていうわけじゃないんだよ、あれは」

 伯父はそう言うと、がり、と飴玉を奥歯で噛み砕いた。子供の前で煙草を吸うなとくち酸っぱく怒られたせいで、伯父はぼくがいるときはずっと飴を食べている。

「じゃあなんで河童巻きなんていうの」
「もともとは本当に河童を巻いてたのさ。よほど旨かったんだろうなあ。とうとうあらかたの河童を食い尽くしちまって、外聞が悪いから胡瓜を河童の好物だってことにして代わりに巻いたんだ」

 ぼくはコオロギのいる籠へ視線を向けた。籠のなかではコオロギが一匹、輪切りにしてやった胡瓜にかじりついている。

「でも、本とかには河童の好物は胡瓜だって書いてるよ」
「河童の好物が胡瓜だなんて誰が決めた」

 にやりとくちの端を持ちあげる。

「河童自身が胡瓜が好きだと宣言したわけじゃあないだろう」

 そうだけど、そうじゃない。でもぼくは、それをどう伯父に訴えればいいかわからず、むっと言葉を飲みこんだ。
 悔しくて両の拳を握っていると、いくらか申し訳なく思ったのか伯父は机の袋から飴玉を数個掴んでぼくへと差し出す。色とりどりの包装に包まれた飴玉は可愛らしくて魅力的だったけれど、こんなことで折れるような子供だとは思われたくなかった。
 受け取る代わりにきろりと睨めば、伯父は飴を手にしたまま眉をさげる。

「拗ねるなよ。そりゃあ胡瓜が好きな河童もいるだろうけどな」

 ぼくがだんまりを決めこんでいると、降参だ、と両手をあげる。片手は飴玉を持ったままだからぼくと揃いの拳になっていた。

「……そうだな。蛙どもの餌代、今月分を折半してやろうじゃないか」

 だからそれで手打ちにしてくれと頼むので、ぼくは拳を開き飴玉を受け取った。

 母は自分の兄であるこの伯父のことを毛嫌いしていて、本当はぼくが伯父のもとへ遊びに行くのだって許せない。いつまでも子供より子供っぽくて、ちゃらんぽらんなところを嫌っているのだ。
 ところで、ぼくの趣味は蛙の飼育である。目がつぶらで案外愛嬌があるのだけれど、母は両生類も爬虫類も、何だったら虫だって見たくもないほど嫌悪している。そのため、ぼくは伯父の家の片隅を借りて蛙とその餌になる虫を飼っていた。
 己の家で大量の蛙と虫を飼うか、いけ好かない兄のもとへ我が子が遊びに行くのを容認するか。母が選んだのは後者であった。
 だからぼくは放課後には自宅より先に伯父の家に向かい、伯父のくだらぬ与太話に片耳を貸しながら蛙の世話をするのが日課になっているのである。

◇◆◇

 伯父とぼくの家の間には公園と呼ぶにはちゃちな空き地がある。遊具や長椅子の類はなく、伸びっぱなしの草とタイルに囲まれた池がひとつきりのひとから忘れられてしまったような場所だ。タイルはひび割れて苔むし、池の水もどんよりとした緑色に染まっている。
 ぼくは蛙や餌になる虫を探すため、しばしばそこで道草を食っていた。ほかにひとが寄らないので、誰にも邪魔をされないのがよい。

 その日も背負ったランドセルをそのままに青々と茂った草をかき分けていると、ふいに自分以外の気配を感じた。蛙とか虫とか、たまに見かける野良猫とか、そういう動物よりずっと大きなものの気配だ。

 地面に向けていた顔をあげ、気配のもとへと視線を巡らせるけれどそれらしいものは見つからない。首を傾げていると、ちゃぷ……とかすかな水音が耳を掠めた。
 はっとして池のほうを見ると、濁った水面に何かが浮かんでいる。黒く濡れたふたつの光るものが瞬き、それがひとの目玉であることに気がついた途端、喉から短い悲鳴がもれた。
 腰を抜かしてその場にへたりこむ。逃げないとと思う反面、小刻みに震えるばかりのからだはまったくぼくの命令をきかなくて、その間にも池のなかのそいつはゆっくりと瞬きを繰り返す。そして波も立てずに滑らかに池の縁まで泳ぐと、ひたりと蒼白い手をタイルにかけた。その不気味なくらい色のない手にちからをこめると、ざぱりと音をさせながら池からあがる。

 びたびたと水を滴らせるそいつはぼくより小柄な少年で、丈の短く襤褸の着物から、か細い手足が伸びていた。
 細く黒い髪を額や首筋に張りつけたままぼくの前に立ち、おもむろにしゃがむ。そいつはわずかに考えるような間を挟み、薄い唇を開けた。

「おまえ、よくここいらで遊んでいるよね」

 ぼくは恐怖に引き攣ったまま、そいつを穴が空くほど見つめた。そいつもぼくをじい、と黒目がちの両目で見つめ返す。こんなに目をあわせていても、そいつが何を考えているのかまったくわからなかった。

「おまえ、蛙が好きなの」

 唐突な問いかけに戸惑っていると、それが表情に出てしまったのだろう。そいつは、はたりと瞬きをして、睫毛に絡んだ水滴がほたりと落ちた。

「よく草むらをわけながら探しているようだったから。ほかに、こんなことする奴はいない」
「……ああ、そうだよ。ぼくは蛙を探してたんだ」
「好きなのか、蛙」
「好きだからわざわざ探してるんだよ」

 苛立ち紛れに言い捨ててもそいつは少しも動じず、ふうん、と頷いた。聞きようによっては退屈そうですらある相槌に、項を逆撫でされたような不快感を覚える。
 怒りが勝ったのか恐怖からくる震えはおさまり、ぼくは脚にちからをいれて立ちあがった。

「――蛙」
「は、」

 そいつはしゃがんだままぼくを見あげていた。やはり表情にも頰にも色はなく、陶器でできた人形みたいだ。

「……なんだよ」
「蛙、どうして好きなんだ」

 どうしてか、こいつは会話を続ける気があるらしい。背でろくに中身のはいっていないランドセルかかたりと鳴る。

「いいだろう、何だって」
「おまえはいつも熱心に探しているから、何がいいのか気になったんだよ」
「……緑のやつは色がきれいだろ。茶色いやつも色合いが独特で悪くない」
「なるほど」
「それに、目が丸くてかわいい……ちょっと、笑って見えるだろ」
「笑ってる……」

 ぼくは気恥ずかしくなり、そいつから目を逸らした。できることなら今の発言を取り消したい。伯父だって大抵のことには寛容で理解を示すが、笑って見えるという点についてはわかってもらえたことがなかった。

「おまえには、そう見えるんだね。じゃあ、笑っているのかもね」

 驚いて、またそいつのほうに目をやる。視線の先で、やはりそいつは無表情にぼくを見ていた。濡れた髪から米神を伝い、青臭い水が落下していく。

「……本当は、外国の蛙がほしいんだ。色が鮮やかなんだ。でも値段が高いし、毒もあるし、さすがにこれ以上伯父さんにもわがまま言えないから」
「ちゃんとがまんができるんだ。すごいね」
「そんなことない……」

 本当にがまんができる子供であれば、伯父の家を間借りしてまで飼育しようとは思わないだろう。それくらい、ぼくにだって察しがつく。

「――ねえ」
「なんだよ」
「めずしい色の蛙がほしいの」
「珍しいというか……きれいな色の蛙がほしいんだ」

 すると、そいつはうっすらと微笑んだ。

「じゃあ、おまえにだけ教えてあげる」
「……何を」
「ここの池、青い蛙がいるんだよ」

 そいつが片手を池のほうへと伸ばした。骨に皮を貼りつけただけのような人差し指が示した先に目を凝らす。

「ほら、よく見て。あの丸い葉っぱのうえ」

 言われた通り、水上に顔を出した丸い水草のうえに確かに青い蛙がいた。緑の信号を青信号と呼ぶのとは違い、頭上に広がる空と同じ色をしている。よくよく澄んだ、すかっとした青だ。

「ほら、ねえ。今ならつかまえられるよ。そんな重いものおろしてさ」

 立ちあがったあいつはぼくの背中からランドセルを取りあげ、草むらに転がす。それに一瞬気を取られるも、あいつに腕を引かれたせいでぼくの意識はすぐに逸れてしまった。細く薄く白い手はひんやりと冷たかった。

「しすがにね。にげちゃうから」

 鮮やかな青の蛙は腹を膨らませたり、へこませたりして、ゆっくりと呼吸をしている。池の縁に立つぼくたちのことには気づいていない。
 引っ張られるのに任せ、ぼくも一歩ずつ池へと近づいていく。進むごとに草が擦れ、その度に気づかれるのではないかと息を飲むが、蛙は葉のうえでおとなしくしている。

 片足が池にはいった。絡みつくような緑の水はひんやりとしていて、思わず先を行くあいつのようすを窺う。あいつは前を見据えていたが、ぼくの視線に感じると小さく振り向き、安心させるようにまた微笑を浮かべた。

「あとすこしだよ」

 ぼくの耳にだけ聞こえるよう囁く。
 もう片方の足も池に浸かり、控えめな水音が立つ。蛙は微動だにしない。腹の動きだけが、あれが作り物ではないことを示している。
 池の水はねっとりと重たかったけど、あいつはとまることなく進んでいった。ぼくも引っ張られるままに足を運ぶ。緑の水をかきわけ、ぼくらは沈んでいく。

 とぷん。
 視界が緑に染まった。水草や藻が絡みつき、くちからぽこぽこと泡が逃げていく。蒼白い手がぼくの腕を掴んで離さない。
 澱み、澄んだ緑の世界で、あいつが笑っていた。嬉しそうに笑っていた。こいつはずっとこの冷たい水底でひとりだったから、ぼくが来てくれて嬉しいのだ。
 ぼくの腕を掴んでいたあいつの骨張った手が、今度はぼくの手を握る。友達同士みたいにぼくらは手をつなぎ、冷たい水に沈んでいく。

 このまま底まで沈むはずだったが、急にあいつとは反対の方向に強くちからがかかった。
 あ、と思う間もなく引きあげられ、ぼんやりとしていた視界に光が戻る。
 何事かと無理やり振り返ると伯父がいて、それを認めた途端ぼくは激しく咳きこんだ。

「あーあー。こんなびしょ濡れになって。タオルなんかないから我慢しろよ」

 伯父はそう言いながら脱いだ上着でぼくを拭った。
 もみくちゃにされながら、ぼくは池を盗み見た。緑に濁った水面は静かで、丸い葉のうえに青い蛙の姿はない。

「こんなに汚しちまって。おまえ、怒られるぞお」
「……伯父さん、」

 けほ、とまた咳きこむ。青臭い水がつんと鼻を通っていった。

「ねえ、伯父さん。あれ、あいつは何だったの」

 しばらくの間、伯父は無心でぼくの濡れた頭を拭いていた。ぼくの言葉が聴こえなかったわけではないだろう。伯父は胡散臭い話をするときならいくらでもくちが回ったが、何かとても大事な話をするときは慎重になるのだ。
 やっと解放されたと思うと、伯父は池に視線を移した。

「あれは河童だ」

 ぼくは伯父の言った言葉がよくわからなくて、聞き間違いかと思った。でも伯父はそんなぼくを見て、もう一度「河童だ」と繰り返した。

「河のわらべと書くだろう」
「でも、ここに川なんてないよ」
「ここいらは昔、川だったんだよ」
「ほんとに、」
「そう。もうずっとずっと昔に枯れてしまったけど、ここには川が流れていたのさ」

 伯父がぼくに被せていた上着を取りあげると、ちから任せに絞る。わずかに滴る水は透明で、日の光を反射して光った。

「しばらくこのあたりには近づかないほうがいい」
「……どうしても、だめなの」

 ぼくの問いかけに、伯父は深く頷いた。そして、困ったようにぼくを見おろし、額に張りついていた髪をひと筋払った。

「だって、おまえはあいつの友達にはなれないだろう」

 ぼくは咄嗟に反論しようと口を開いたけれど、何も言葉が出てこなかった。
 水中でぽこぽこと溢れた気泡が瞼の裏でのぼっていく。不思議ともうあいつの顔は思い出せなくて、骨張った冷たい手の感触だけがまだ残っている。

「誰かが池なんて作ったから。せっかく水との縁が切れたのになあ」

 伯父が零した呟きが寂しげに響く。
 ぼくはもう一度池に目をやった。
 池の水面は穏やかに揺らぎ、苔むしたタイルを撫でる。そこに暮らしているはずの生物たちの息遣いは静かすぎて、ぼくには感じとることができなかった。

<終>


最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。

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