【小説】人魚の卵
銀色に光る海を横目に、汐里はざくざくと砂を踏みしめ歩いていた。
彼女を先導するように揺れる尾の持ち主であるタカラは時折、汐里がきちんとついてきているか確かめるように振り向く。その度に汐里は三角耳の相棒に手を振ってやった。
冬の海は静かだ。海水浴目当ての客はもちろん、寒すぎてサーファーの姿もない。浜辺にあるのはひとりと一匹の並んだ足跡だけだ。
汐里は冬の海のほうが好きだった。ひと気のない浜辺は少し寂しいけれど、冷たい潮の香りと海風は気持ちがいい。
それに、タカラのリードを長くしても誰にも迷惑をかけずに済む。
タカラは汐里がきちんとついてきているのを確認すると、たっと軽い足取りで駆け出した。黒い毛並みがなびいて風となる。
のんびりとそのあとを追いかけながら、汐里は足元を見おろした。
毎日のように海辺に訪れるが、その度に浜には違うものが打ちあげられている。昨日はなかった流木の破片が転がり、骨みたいに真っ白な貝殻が埋もれていた。もっと集中して探せば、シーグラスなんかも落ちているかもしれない。
そんなことを考えていると、軽快に走り回っていたタカラが大きな流木のそばで足をとめた。ふさふさの尻尾を旗のように振りながら鼻先を流木のほうへと突っこむ。
「タカラ? 何か見つけたの」
何か変なものでも見つけて食べてしまったらことだ。汐里が足早に近寄ると、タカラは鼻先を流木の陰に向けたまま「ワンッ」と鳴いた。
「……なあに、これ」
タカラの黒く濡れた鼻がつん、と突いたのはまるい玉だった。ビー玉くらいの大きさで、曇ったようにぼやけた表面は青みを帯びていた。
指先で摘まんでみると思っていたよりも硬く、本当にビー玉みたいだ。
思わずタカラの顔を見ると、彼は得意げにもう一度「ワンッ」と高らかに吠えた。
「お姉ちゃん、これ、海で拾ったんだ」
家に帰った汐里は姉である夏帆に拾いものを見せた。パソコンの画面とにらめっこしていた夏帆は、面倒そうに妹のほうへと顔を向ける。週明けに提出しなければいけない課題を片付けなければいけないのだ。
しかし、お姉ちゃんは今勉強中だからあとにして、と言うつもりだったくちから飛び出したのは「わっ」という音だった。
「あんた、それ、拾ったって、どこで?」
「だから海だってば。言ったじゃん」
「ああ、ごめんごめん。でも、とんでもないもの拾ってきたねえ」
「とんでもないもの?」
「ちょっと貸してみて」
汐里からビー玉を預かった夏帆は立ちあがるとキッチンへと向かった。
適当なコップに水と塩を注ぎ、即席の塩水を作ると「よく見てな」と言ってビー玉をそっといれた。ビー玉はゆっくりと沈んで、底にあたるところりと転がった。
姉に言われるがままそれを眺めていると、じわじわと球体の曇りが薄くなっていく。ついにはすっかり透明になり、キラキラと光る表面はゼリーのようにつるりと滑らかになった。何より目を引いたのは、その澄んだ紺碧の球のなかで眠る小さな人影である。
絹糸のような豊かな髪は陽だまりの色をしていた。あたたかな色味の繊細な髪がかかる頬はいかにも柔らかそうなまるみを帯びていて、閉じられた瞼を飾る睫毛は長く、髪と同じ色をしている。
「お姉ちゃん、これ、何?」
「人魚よ」
汐里は目をまるくしてもう一度玉を覗きこんだ。身をまるめるようにして眠るそのひとの脚は、たしかに魚の尾になっている。とても小さいけれど、規則正しく並んだ翡翠の鱗は蛍光灯のしたでも美しく輝いていた。
「正確には人魚の卵ね。このなかで眠っているのが人魚の赤ちゃん」
「赤ちゃん」
「そう。卵の表面は乾くと曇っちゃうんだけど、こうして塩水で濡れると透明になって、なかの赤ちゃんが見えるのよ」
へえー、と感心の声をあげながら汐里は人魚の卵とやらを見つめた。
まるで愛らしい人形のようだ。でも、よく見ていると呼吸をしていて、白い胸もとがゆっくりと上下しているのだった。
「どのあたりで見つけたの?」
「えっとね、大きな流木のとこ。タカラが見つけたんだよ」
「タカラったらお手柄じゃん」
名前を呼ばれたタカラが吠える。元気に振られる尾はどこか誇らしげだ。
「よしよし、ご褒美はあとね。まずはこの卵をなんとかしなくっちゃ」
「海に戻してあげるの?」
「そう。でも拾った場所に戻すだけじゃだめね」
そうなの? と首を傾げる汐里に夏帆が頷く。
「普通、人魚は浅瀬のほうには来ないのよ。卵だって深海で産むしね。だからちゃんと沖のほうに戻してあげたいんだけど……この時間に船を出してくれるひとかぁ……」
この時間では、船に乗せてくれそうなひとたちは皆漁に行っていて不在だ。残っている船の持ち主は早朝に漁に出たぶん、今は休んでいるだろうから頼みにくい。
汐里がむっと顔をしかめて悩んでいると、パソコンの画面を落とした夏帆が「よし!」と明るく声をあげた。
「先生のとこへ行ってみよっか」
海岸に建つ先生の家は一階部分が海に、二階部分が住居になっていて、まるで海上に浮かんでいるような見た目をしている。
一階の海には先生の船があって、それは漁で使うものではないから貸してもらえるのではないかと考えたのだ。それに、先生だって絶対人魚の卵に興味があるはずだ、と夏帆は言う。
実際に、人魚の卵の話をした途端、先生は眼鏡の奥の目をおおいに輝かせた。
「すごいね、きみたち! 僕だって人魚の卵の実物を見たのは人生で二度目だよ」
頬を赤く染めた先生はコップにいれたままもってきた卵を光に透かしたり、くるりとコップごと回してみたりと夢中になる。
「僕が当時見た卵は黒髪に褐色の肌の人魚だったんだ。緋色の鱗が綺麗でね、あんなに小さいのに規則正しく並んだ宝石みたいに光るんだよ。この人魚もなんて美しいんだろう!」
「先生、わたしたち、その卵を海に帰してあげたくて来たの」
隙をついた夏帆がそうくちを挟むと、先生はハッとしたように瞬きをした。それから、先ほどとは違った理由で頬を赤くする。
「ごめんね。つい嬉しくて……」
先生と呼ばれているけれど、彼は学校の先生ではない。海の何某かを研究している学者である。
温和な性格と人畜無害を絵に描いたような容姿でもって、町のひとたちからも信頼が厚く、こうして子供たちから頼られることも少なくない。しかし、一度夢中になると周りが見えなくなってしまうのが欠点であった。
先生は気を取り直すように、おほん、とわざとらくしく咳払いをした。
「それで、僕の船を借りに来たのだね。勿論いいよ」
ライフジャケットを貸してもらった姉妹は先生の船に乗りこみ、海へと発った。
白い波飛沫をあげながら海原を進んでいく。漁で使わなくなった旧い型の船だが、凪いだ海を渡るには十分だ。
海辺は毎日のように歩いているけれど、沖に出ることはほとんどない。汐里は弾む心とコップをもって青や銀に瞬く海を見つめた。
「このあたりでいいかな」
濃い潮のにおいが揺蕩う海原で船がとまった。
「汐里」
名前を呼ばれて頷いたけれど、包むようにコップをもつ手が動かない。
即席の塩水に沈む卵は相変わらず綺麗な青で、人魚の赤ちゃんはぐっすりと眠っている。
「ほら、汐里。早く帰してあげな」
姉に急かされても、汐里は動けなかった。
汐里だって早く帰してあげたいと思うのに、からだの奥の心臓がどきどきと強く脈打って邪魔をするのだ。
どうしようもなく泣きたいような気分になってきて、コップを支える指先にきゅっとちからがこもる。
「人魚の卵はね、満月の夜に孵るんだ。月の明かりも太陽の光も届かないような深海にいるのに、不思議だよね」
先生は穏やかな口調で話しながら、ちょん、とコップの縁をつついた。
海水の飛沫をつけたレンズの奥の瞳は優しい色を浮かべている。
「この人魚も、いつかの満月の夜に孵るんだよ。それできっと、この宝石みたいな鱗を輝かせながら広い広い海を泳ぐんだ。想像しただけでワクワクするよね」
「……うん」
汐里が頷くと、先生は微笑んだ。
「じゃあ、ちゃんと海に帰してあげないとね」
「うん」
夏帆の言葉にも素直に頷き、汐里はコップを傾けた。
食塩でできた水は大海へと解け、人魚の卵は深い青へと解ける。
波に飲みこまれながら、卵がちらちらと光を反射した。まるで、バイバイと手を振っているようで、汐里も手を振り返す。
三人が見つめるなか、白銀の波がぐるぐると渦を巻き、人魚の卵は沈んでいった。
手に残ったからのコップがほんの少し冷たさを増した気がして、汐里は小さなくちをきゅっと引き結んだ。
「やあ、いいことをしたね。これでふたりはこの先うっかり海に落ちてしまっても助かるよ」
「どういうこと?」
姉妹はそろって首を傾げる。
それを見た先生はますます楽しそうに笑った。
「このあたりの海の人魚は情が深いんだ。だからふたりが助けてくれたこと、きっと忘れないよ」
見おろした海は途方もなく広く、もうどこに卵があるかなんてわからない。
でも、複雑な色彩で光る海のどこかで、あの人魚も翡翠の鱗を煌めかせながら泳ぐ日が来るのだ。
「綺麗だろうね」
遠くを眺めながら夏帆が言い、汐里はまた素直に頷く。
金色の月の明かりのした、微笑む人魚の姿が見えるような気がした。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。
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