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【小説】手中の魚

 祭囃子が聴こえてきた。はて、この辺りで祭りなどあっただろうか。
 よせばいいのに、私の足はふらふらと音のほうへと寄っていく。
 笛、太鼓、鐘の音。からころと下駄の軽やかな音がまじる祭り独特の喧騒。久々に耳にするそれは聴いているだけでも心が浮つく。

 日が暮れてもまだ熱を孕んだ夜を縫うようにいくつかの角を曲がったところで広い道に出た。道の端にはずらりと屋台が並び、楽しげに歩くひとびとを橙色のあたたかな光が照らす。
 ソースや醤油の焦げる芳ばしい匂いに、綿あめやかき氷のシロップの甘ったるい匂いが鼻から脳へと忍びこみ、思考を鈍らせる。空腹感は不思議となく、かと言って去るにも惜しく、私はふらりと人波へ加わった。
 柱に括り付けられた鮮やかな色合いの風車がからからと回り、艶やかなあんず飴をのせた氷の台が蜃気楼のように揺らめく。
 射的がやりたいと駄々をこねる子供を横目に、お面屋に並べられた面を眺める。チープな面のキャラクターはどれひとつ見たことのないもので、急に自分が随分と遠くまで来てしまったような気分になった。
 過去を惜しんだところで戻れるわけもなく、緩やかな流れに身を任せ、さらに奥へと歩みを進める。丸々と膨らんだ水風船を真剣な面持ちで狙う女の浴衣は白地に青い花が咲く涼しげなもので、通り過ぎるとき、水とゴムの匂いが鼻先を掠めた。

 カラン、と喧騒の隙間に氷の音がして、そちらを見れば氷水に浸した飲み物が白熱灯のしたで光っている。私は暫しそれを眺め、ラムネを一本買うことにした。澄んだ青色をしたラムネの容器は汗をかいたように表面が濡れ、しかし驚くほど冷たかった。
 すぐには飲まず、片手にぶらさげたまま再び屋台の並ぶ店を歩く。

「どうだい、お兄さん。うちの金魚は活きがいいよ」

 急に話しかけられて驚きつつも目をやると、声をかけてきた親父がつまらなそうな顔で私を見あげていた。屋台には『金魚すくい』と赤い文字で書かれている。
 私がぼんやりと頭上の文字を眺めていると、親父はやはりつまらなそうな表情のまま、先ほどと同じことをもう一度繰り返した。

「そうは言っても、屋台の金魚はすぐに死んでしまうじゃないか」
「うちの金魚はそこらの金魚とは違うのさ。お客さんと同じくらいにゃ生きる」

 金魚とはそんなに長生きするものなのだろうか。もう随分と昔、まだ私がろくに世の中を知らぬほどの幼い子供であった頃に屋台ですくった金魚三匹のうち。二匹はすぐ死に、最後の一匹も半年後には儚くなった。あれから時は流れ、人間の寿命が延びたように、金魚すくいの金魚たちの寿命も延びたというのか。

「百聞は一見に如かず、だ。まけてやるから」

 まだ、うんともすんとも言ってないにもかかわらず、親父が私の手にポイを握らせる。困ったことになった。私は押しに弱いのだ。
 仕方なしにポイを握り直し、浅いプールの前にしゃがんだ。じりりと熱を放つ白熱灯を浴びながら、金魚たちが思い思いに泳いでいる。私が幼少期にすくった金魚とは違い、鰭が大きく、ひらひらとたなびいていた。
 特別金魚が欲しいわけではないが、やるからには真剣にやってやろうではないか。

 私はゆっくりとポイを沈め、金魚の群れへと近づけた。途端、弾かれたように魚たちが四方に散る。狙いがそれたポイが空を掻き、親父はそれをげじげじとした眉ひとつ動かすことなく見ていた。まだ薄紙は破れていない。私は再度ポイをかまえて金魚をすくおうとしたが、彼らも馬鹿ではないのですいすいと逃げていく。幾度試しても逃げられ、だんだんと嫌になってきた。
 何も取って喰おうなど思っていないのに、魚からしたら私など自分たちの安寧を脅かす大きな化け物に過ぎないだろう。それがますます私を嫌な気持ちにさせた。

「おや、もう諦めちまうのかい」

 親父の口角があがって見えたのは私の見方が捻くれているせいなのか。無言でまだ破れていないポイを返そうとすると、親父の日に焼けた太い指がある一匹を指す。

「これなんかどうだい。赤が鮮やかでいい金魚だ」

 確かに、プールの隅で鰭をくゆらせる金魚は目に焼きつくような赤をしていた。
 仕方ない。私はこれが最後だとポイを沈める。金魚のしたにポイを移動させる。
 ふと、目があった。気がした。魚とこんなふうに目があうことなどあるのだろうか。手が震え、予定と違うタイミングでポイを持ちあげてしまう。冷ややかな飛沫が頬を打ち、袖を濡らす。
 果たして、水中からあがったポイのうえには立派な金魚が乗っていた。反射的に、親父の差し出した椀に移す。

「いい腕じゃないか」

 親父はそう言うと、手慣れたようすで私からポイを回収し、代わりにビニル袋にいれた金魚をよこした。

「そいつはちょいと我が強いがいい女だ。大事にしてやれよ」

 はあ、と気の抜けた返事はもう親父の耳には届いていないようだった。親父は私が立ち去る最後のときまでずっとつまらなそうな顔をしていた。

 透明なビニル袋を覗くと窮屈そうに金魚が浮いている。泳いでいる、ではなく、浮いている。私の歩く振動にあわせて水が揺れ、金魚はされるがままに尾鰭をなびかせていた。
 こんなちゃちなビニル袋に収まるほどに小さい命が私の手のなかにある。もし、私がここでビニル袋ごと棄てれば酸欠か、或いは暑さで茹って死ぬだろう。袋を裂いてしまえば空に放り出されて死ぬだろう。めちゃくちゃに袋を振り回せばか弱い躰では耐えきれなくて、やはり死ぬだろう。
 私は何だかどうしようもなく怖くなり、ラムネと金魚いりの袋を手に早足で人波を抜け出した。なるべく揺らさないようにしたかったが、手を通して水が荒々しく波立つのが伝わってくる。

 広い道を外れ、私は川にかかった橋へとやってきた。皆祭りに行っているのだろう。私のほかに人影はなく、祭囃子が他人事のように鳴っている。
 夜の川は底がない黒をしていて、時折、街灯の白をぎらぎらと返す。これから私がやろうとすることを責めるように、ぎらぎらと照る。

「まあ、貴方。まさかこの川に放すつもりなの」

 高く愛らしい声が私を糾弾した。

「仕方ないだろう。私では君を養うことなんてできないよ」

 ビニル袋を目の高さまで持ちあげると、私を睨みつける小さな女と視線がぶつかった。まだ少女の面影を残す彼女は血色のいい頬をふくと膨らまし、花弁のように可憐な唇を尖らせる。

「なんて無責任な方。あたしの見込み違いだったのかしら」
「そうだ。私みたいな無責任な人間を選んだ君が悪い」
「まあ、酷い方。こんな淀んだ川に放したところで、あたしみたいなか弱い魚、すぐに死んでしまうわ」
「案外水があうかもしれないだろう」
「そんなことないわ。あたし、孵る前から大事に大事に、清潔な水と綺麗な空気で生きてきたのよ。今さらこんな外の世界で生きていくことなんてできないわ」

 狭い水のなかで半透明な鰭がひらめく。

「貴方。貴方は怖いだけよ」
「何が怖いというのさ」

 咄嗟にそう返すと、女は丸い目をきゅうと細めた。

「あたしが死ぬことよ。貴方は、あたしが死ぬのが怖いのよ」

 ちゃぷん、と水が波立つ。彼女が身を揺らしたのか、私の手が震えたのか。もうわからなかった。わからないなりに、このまま彼女を川に落としてしまわぬよう、ビニル袋を持ち直す。

「怖いのでしょう。貴方の見えるところであたしが死ぬことが。あたしの死体を目にすることが。でもね、貴方があたしを川に放したところで、どうせあたしは死ぬのよ。貴方の心のなかにあたしの死体が残るのよ。そして貴方は一生後悔するんだわ。あたしの死に目を見れなかったことを悔やむのだわ」

 絶えず水の流れる音が私たちを囲んでいる。こんなに水が近いのに空気はむんむんと暑く、じっとりと背中に滲む汗が不快であった。

「どうせなら、ねえ、あたしを見ていなさいよ。最期まで、見ていなさいよ」

 ちゃぷん、波が立つ。柔らかそうな彼女の手がビニル袋越しに伸ばされる。

「あたしをすくったあの瞬間から、貴方の運命もあたしの運命も決まっていたのよ。今さら逃げることなんてできないのよ」

 ちゃぷん、女が笑う。愛らしい声でころころと、私を赦すように笑う。
 私はどうしようもない気分になって、ビニル袋を棄てる代わりにラムネの瓶を開けた。炭酸がぶわりと溢れ、みるみるうちに手を甘く濡らしていく。私はさらに惨めな気持ちになったが、女はさも愉快そうに高く愛嬌のある笑い声をあげた。
 溢れたせいで嵩の減ったラムネはぬるく、べたりと咥内にはりついた。

◇◆◇

 緑がかった真昼の川面に鴨のつがいが浮かんでいる。うつらうつらと、されるがままに穏やかな波に揺られている。

「まあ、鴨なんて見て一体何が楽しいのかしら」

 女の腕が私の腕にするりと絡む。彼女の肌はいつだって温度が低くて気持ちがよかった。

「どうせその老眼じゃ、ろくに見えやしないでしょうに」
「失礼な。まだあれくらい見えるさ」
「あら、そう」
「拗ねるなよ。今日は君の行きたがっていたお店に行くのだろう」
「ああ、そうね。そうだったわ」

 熟れた果実色のルージュを引いた唇が微笑む。それを見て、私の口許も緩む。

「さ、案内しておくれ」
「ええ、ええ。こっちよ」

 彼女のひんやりとした指先が、私のしわが刻まれた手を撫でる。乾いた皮膚に、瑞々しい柔らかな指が吸いついて心地よい。
 機嫌がいいのだろう、跳ねるような調子で歩く彼女の赤いスカートがひらり、翻った。

<終>


最後まで読んでいただきありがとうございました。
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