見出し画像

【小説】さらば幕は閉じて

 スポットライトの眩い白が彼を照ら出す。
 つい、と天へ向かって彼の手が伸び、朗々と愛を歌いあげる。
 背後に映った影すら美しく、観客の目は彼に釘づけだった。

『嗚呼、貴女さえ、貴女さえいればそれで良かったのに』

 陳腐な台詞も、彼が唱えると途端に極上の甘露となって響く。
 うっとりと蕩けた視線で客席を舐めれば、誰もが悩ましげに溜め息を吐く。

『貴女をもう一度この腕に抱けたなら、この私の魂など……!』

 指先までぴんとそろっていた手が不意に崩れ、苦しげに表情を歪める。
 右手はありったけのちからで胸元を握りしめ、左手は苦渋を浮かべた顔に添える。

『嗚呼、愛してたんだ』

 立っていられなくなり、膝をつく。呻き。
 前屈みになり、背をまるめる。嗚咽。
 地に突っ伏す。か細い息。

『……愛してたんだ……』

 暗転。
 沈黙。
 そして閉幕へ。

 講堂にわき起こった割れんばかりの拍手はいつまでも鳴りやまず、カーテンコールに応えるべく役者たちが舞台に走り出す。
 晴れやかな表情がずらり並んで、その中心に立つ彼は誰よりも光を放っていた。

◇◆◇

「あれはさ、やっぱ脚本がチープだったよね」

 藍沢はそう言ってにやりと笑い、手のなかのペットボトルを揺すった。

「王道って言ってやれよ」

 ちゃぷちゃぷと飲みかけのスポーツドリンクが波を立てる。
 部室として借りている教室にはもうふたりしか残っていなくて、ささやかな音でもよく耳についた。
 手を差し出せば、ペットボトルが緩やかな弧を描いて飛んでくる。うまくキャッチすると、藍沢が高く笑い声をあげた。

「ナイスキャッチ!」
「どうもどうも」
「で、何の話だったっけ」
「脚本の話だろ」

 そうだった、と藍沢が椅子ごとのけぞる。

「危ないぞ」
「おまえはカーチャンか」

 ぎいぎいと椅子を鳴らす男は、つい数時間前に舞台のうえで愛に悶え苦しんでいた人間と同一人物とは思えぬほどだらしがなかった。ファンが見たらなんと思うだろうか。
 藍沢というやつは舞台をおりると多少見目が良いだけのだらしなく、子供っぽい高校生になりさがる。いや、舞台上の藍沢が普通ではないのだ。
 とある高校の演劇部のいち部員にすぎないが、彼には校内外含め多くのファンがいる。本来の人間性を知っている部員たちですら魅了するような男なのだった。

「あんなの、どこにでもあるような悲劇じゃん。わかりきった展開のどこがいいんだか」
「王道が王道たる所以は普遍的にウケるからだぞ」
「んなことわぁかってるよ」
「どうだか」
「いーじゃん。どうせわかったところで、もうることもないんだからさ」

 ねえ、と加賀美に同意を求めてくる。何せ教室にはふたりしかいないから、同意を求めるにしても加賀美しかいないのだ。だが加賀美はどう返答すべきが迷い、くちを噤んだ。

「ちょっと、そこで黙んないでよ」

 板のうえ、スポットライトのしたで美しい歪を象っていた男が、今は幼稚な膨れ面をさらしている。しかし、それはすぐさま悪戯を思いついた含みのある笑みに変わった。

「もしかして、寂しくなっちゃった?」
「……ああ、そうだよ」

 にやけた面をまっすぐに見つめ返しながら肯定すると、彼は両目をまるくし、ついでにくちまでぽかりと開けてみせた。誰が呼び出したのか、『演劇の申し子』なんて愉快な二つ名よりもさらに愉快な顔をしている。
 たまらず吹き出すと、藍沢はむっとしたように眉間にしわを寄せた。
 加賀美は笑いの余韻にしばらく肩を震わせ、藍沢は忌々しそうに椅子のうえで胡坐をかく。

「からかいやがって」
「いや、悪かったって……寂しいのは結構本当。本気でやめちゃうのか、演劇」

 手に持ったままだったペットボトルの蓋を緩める。
 藍沢は視線を窓の外に逸らし、自身の前髪に触れた。夕闇の迫った窓に物憂げな影がうっすらと反射する。

「約束だったからね。この先は家業のためにお勉強」

 ほとんどの三年がこの春公演で引退する。その後、舞台関係の道に進むかどうかはひとによって違う。専門の道を選ぶ者もいれば、各大学の演劇部にはいるつもりの者もいるし、すっぱりやめる予定の者もいた。
 藍沢は今作を最後に、もう二度と舞台にあがることはない。少なくとも本人はそのつもりで、ならばやはり、今後藍沢が観客の前に出ることはないのだろう。

「カガミは続けるんだっけ」
「ああ、うん。舞台演出とかできるとこ受けようと思ってる」

 加賀美はずっと裏方をやってきた。表で演じることよりも、裏側で舞台を作るほうが性にあっていたのだ。とくに照明の操作については部内いちの腕前だったと自負している。

「ふうん」

 自分から尋ねたわりには気のない相槌だった。何度も指に前髪を絡めては解くを繰り返している。
 加賀美は思い出したようにペットボトルをあおった。くちに含んだ液体はすっかりぬるくなっていて、喉に甘ったるい軌跡を残して流れていく。藍沢が向ける視線もそれと同じくらいじっとりとして、いつまでも張りつくようなしつこさがあった。

「何だよ。何か言いたいことがあるなら、ちゃんとくちに出して言いなさい」

 表情が豊かで減らず口ばかり叩くが、本当に言いたいことは言わないという悪癖が藍沢にはあった。言わないのであれば隠せばいいものを、視線だけは雄弁で、それに業を煮やした加賀美がつついて話をさせるというのがお決まりのやり取りであった。
 しかし、せっつかれても藍沢はじっとりとした目つきのまま、考えこむように黙っている。その姿は赤が滲む群青に沈んでしまいそうだった。

「藍沢?」

 名前を呼ぶと、はっとしたように肩を揺らす。そして加賀美と目があうと、小さくはにかんでみせた。

「カガミは俺以外にスポットライト向けるのかぁって思って」
「今までだって散々向けてきただろ」
「そうだけどさぁ」

 真っ暗な舞台上で白い円に切り取られた藍沢は、身内の贔屓目なしでも飛び抜けて鮮麗だった。男でも女でも妖精でも華麗にこなし、圧倒的な存在感を観客に焼きつける。
 そんな藍沢を照らす役割を己が担っていることに、加賀美は密やかな優越感を覚えていた。ほかの役者に光を当てるときだって最善を尽くしたが、藍沢を照らし出すときの高揚感というのは唯一無二であったのだ。

 片や演劇の道を続け、片や家業を継ぐべく道を外れ、その歩みが交わることはないであろう。そう思うとやはり寂しくて、加賀美はもうひとくち、ぬるいドリンクを飲みこんだ。

「ねえ、ちょっと提案なんだけどさ」

 胡坐を解いた藍沢が、加賀美へと流し目を寄越す。甘える機会を窺う猫のような風情であった。

「なんだよ」

 聞く姿勢をとると、それだけで彼の目に喜びの色が浮かんだ。
 ふふ、と笑みをこぼしながら身を乗り出す。

「今回の舞台、ほんとはもう一個やってみたかった演出があって。せっかくだから、今演らせてよ」
「ここで?」
「ここで」

 藍沢は加賀美の返事を聞く前に立ちあがると、教壇をわきへと押しやった。それからブレザーを脱ぎ捨ててワイシャツ姿となる。
 弾むような足取りで出入口に向かったと思えば、黒板を照らす明かり以外をすべて消した。

「狭いけど、まあ何とかなるでしょ」

 黒板のしたには段差があって、彼はそれを舞台に見立てるようだった。
 呆然と椅子に座ったままの加賀美を見やり、妖艶に微笑む。

「よく観ていて、絶対目を離さないで――舞台は終盤、夜の森のシーンから」

 中央に立ち、わずかに俯くようにして目を伏せる。
 次に顔をあげたとき、藍沢はもう藍沢ではなかった。運命に抗い、愛を貫こうとした男がそこにいた。
 夜の森を彷徨い、心身ともに傷つき、それでも朗々と愛を歌う。

 決して結ばれない運命の男と女が惹かれあい、そして別れる古典的な悲劇だ。女は男を愛するが故に諦め、男は女を愛するが故に諦められない。運命に抗い続けた男は、とうとう心を引き裂かれて終わる。

 情緒たっぷりに演じる藍沢にはぴったりの配役だった。
 教室の薄汚れた天井へ片手を伸ばした彼が台詞を紡ぐ。

『嗚呼、貴女さえ、貴女さえいればそれで良かったのに』

 見慣れた制服のワイシャツと黒いスラックスはたちまちのうちに貴族の衣装となり、背後の黒板は彼が迷いこんだ夜の森に転じる。
 たったひとりしか観客がいなくても、彼は手を抜いたりしない。四肢の末端まで洗礼された動きでもって、観るものすべてを虜にする。

『貴女をもう一度この腕に抱けたなら、この私の魂など……!』

 指先までぴんとそろっていた手が不意に崩れ、苦しげに表情を歪める。
 右手が胸元を握りしめると白いワイシャツには深いしわが刻まれ、左手は歯を食いしばった顔を覆う。 

『嗚呼、愛してたんだ』

 立っていられなくなり、膝をつく。呻き。
 前屈みになり、背をまるめる。嗚咽。
 地に突っ伏す。か細い息。

 そのまま一拍、二拍。三拍目を数えようとしたとき、身を縮めた男が震えた。
 ぬう、と腕を突き出す。幽鬼のように蒼白い腕だった。
 数時間前の演出では両手で胸をおさえていたが、今は右手が観客に、たったひとりの観客である加賀美に向かってうんと伸ばされている。俯いていたはずの顔は加賀美を見据え、その頬はしとどに濡れていた。
 汗、いや、涙だった。

 喘ぐ。次から次へと涙があふれて頬を濡らす。
 ぴんと伸ばされた腕は小刻みに震え、爪の先端まで切実さが宿っていた。
 藍沢の唇がかすかに動く。

 ――カガミ。

 高らかに歌い、甘露を振りまくのと同じくちで、音もなく加賀美の名前を呼んだのだった。
 先ほど飲んだスポーツドリンクがふつふつと胃のなかで沸きだす。

 彼が呼ぶ無音の響きは加賀美のなかで輪郭を得て、ひとつにまとまって、やわらかいところに落下した。それを中心に痺れが広まり、喘ぐ。目を見張る。胸をおさえる。ふつふつと胃が戦慄く。

 視線は目の前の男に囚われたまま、加賀美は感情の名前を知った。

 あの手を取ったら悲劇は喜劇になれるのだろうか。
 彼の張りつめた感情に触れたかった。あれはきっと自分が抱えたものと同じ名前がついている。
 からだは痺れて動かないくせに、嵐のごとく吹き荒れる感情は抑えきれず、目から涙となってこぼれた。たったひと粒だけ、頬を転がり落ちて暗がりに吸いこまれていく。
 加賀美はまたひとつ喘いだ。

 四角く区切られた薄闇でふたりの視線が交差する。
 いつか藍沢は言っていた。舞台のうえからは案外客席がよく見えるのだと。
 そして加賀美は知っていた。舞台のうえに立つ彼が時折自分のほうを見あげていたことを。

 ふ、と藍沢の濡れた頬が緩み、苦しそうに歪んでいた表情が淡くほころんだ。普段の快活で子供っぽい表情とはほど遠い、凪いだ表情だった。

 あれだけ懸命に伸ばされていた手首が、かくりと折れる。そうして腕が落ち、全身が脱力する。
 加賀美は低く呻いた。投げ出された腕は棒切れのように転がり、ぴくりとも動かない。

「……愛してたんだ……」

 強く目を閉じ、両手で顔を覆う。

 暗転。
 沈黙。
 そして閉幕へ。

 教室はいつまでも静まり返ったままであった。

<終>


最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。

https://sutekibungei.com/users/oknm3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?