【小説】向日葵が呼んでいる
若が買ったのは一枚の向日葵の絵だった。
地平線を埋め尽くす向日葵畑が描かれた絵だ。黄色い大輪の花々の奥には青くぺったりとした空が広がり、雲と思しき白いものが点々と置かれている。
素人目からしても優れた技巧があるようには見受けられず、これといって面白味のない絵であった。
しかし、若はよほど気に入ったのか、毎日のようにその絵を眺めていた。
その視線はあまりに熱がこもっていて、まるで恋でもしてるみたいだ。実際そう揶揄うやつもいたが、若は鷹揚に笑うばかりであった。周りの冷やかしよりも絵を眺めることのほうが彼にとって大事なことだったのだろう。
絵を売ったのは、若とそう歳の変わらなそうな若者であった。よく整った容姿と高すぎず低すぎない坦々とした声は男のようでもあり、女のようでもあった気がする。
そいつは絵を売る前から若と認識があったようだ。
ある仕事の後始末で出向いた先で会ったのだという。いったいどんな会話をしたのかは知らないが、随分と意気投合したらしい。仕事のあとは大抵物憂げな表情を浮かべる若が、まだ遊び盛りの餓鬼だった頃のような浮ついたようすで事務所に戻ってきたときは内心驚いたものだ。
まあ兎も角、若が機嫌よく、仕事にも熱心であるのは素晴らしいことだ。
私も周囲もそう思って、価値のよくわからない絵を毎日飽きもせず眺める若をとめはしなかった。
◇◆◇
「そんなに熱心に見つめてちゃあ、そのうち穴が開いちまいますよ」
その日も若は、電源を落としたノートパソコンに手を置いたまま壁に掛けた絵を見ていた。
「よい絵だろ。俺はこの絵の話をあいつから聞いたとき、ぴんときたんだ」
「話を聞いただけで、ですか」
「ああ、そうだ」
話している間も、若の視線は絵にあった。その眼差しは情熱的で、穴どころか燃やしてしまいそうだ。
向日葵の花というのは太陽を向くものである。この絵に描かれた向日葵はすべて正面を向いていて、つまり絵を見る者が太陽ということになる。しかし、若は――彼こそが向日葵のようであった。男が女を求めるよりずっと、ひたむきに焦がれている。ただの一枚の絵に。
そう思い至った途端、ぞうっと鳥肌が立った。私の勘が、『やばい』と告げている。
何がやばいのか、肝心なことはわからない。だが、若の気を絵から逸らしたいと思った。
こういうときは勘に従えと、数々の修羅場を乗り越えてきた経験が警告する。
「あー……そういえば、若は昔、向日葵畑で迷子になったことがありましたよね」
「ん……そんなことあったか」
一途に絵の向日葵へと向けられていた視線が揺らぐ。
「ええ、そうですよ。まだ若が小学生のときですね」
若が小学生になってはじめての夏休みを迎えたときのことだ。珍しく親父さんがどこかに連れていってやろうと言う。つねに忙しい親父さんと出掛ける機会など滅多にないものだから、幼い若は期待に満ちた声で『向日葵畑』と答えた。大方、テレビか何かで見たのだろう。
結局親父さんがともに行くことは叶わず、私と数人をつけてどこぞの田舎にある向日葵畑へと若を送り出した。
視界いっぱいに広がる太陽みたいな花々と、青く晴れ渡った空を目前にして、花を愛でるような情緒がない男たちでも思わず感嘆の声をこぼす。
こんな絵とは比べものにならないくらい、本物の向日葵畑は圧巻だった。とくに大きなものなど、一同のなかで最も背の高い私の胸よりも高い位置に花があるのだ。
親父さんに約束を反故にされて拗ねていた若も、歓声をあげると畑へとつっこんでいった。まだ幼い彼の姿はあっという間に埋もれてしまったが、私たちが若の名前を呼ぶと返事がある。
何かと不自由の多い人生だ。私たちは柄にもなく同情心めいたものを抱き、若の好きなようにさせることにした。
向日葵が笑うように揺れ、名前を呼べば返事がある。
黄色い花が揺れ、返事がある。
何度も繰り返されるそれに、時間の流れが遅くなったかのような錯覚すらしてきたときだった。
いくら呼んでも若の返事がない。
最初は私たちをからかっているのかとも考えた。だが、がたいがよい男どもがちから任せに怒鳴ろうが、哀れみを誘うように呼ぼうが、一向に返事はない。
賢い子供だ。こんな遊びをするような浅はかな思考はしていない。
では、具合を悪くして気を失っているのではないか。何か声が出せないようなことが若の身に起きているのではないか。
私たちは我先に畑へ飛びこみ、汗だくになりながら広大な敷地を隅から隅まで探し回った。
だが、やはりいないのである。
すわ誘拐か。はたまた逃げ出してしまったのか。
どんな理由にせよ、若が見つからなければ指を詰めるくらいでは済まない。地獄のような責苦のはてに、海に沈められるか、山に埋められるか。
恐ろしさのあまり己の首に触れると、掌のしたで血管がどくどくと拍動していた。
私たちはもう気が気でなかった。何としても若を見つけなければならない。
あれだけゆったりとしていた時間は容赦なく流れていき、気がつけば空はすっかり赤に染まっていた。
毒々しい赤を背負った花が我々を見つめている。じっとりと湿って生暖かい空気が、なす術もない男たちを追い立てる。
いよいよ命運尽きたかと思われたとき、若が姿を現した。
背の高い向日葵の隙間からひょっこりと顔を出し、汗みずくで情けなく膝をついた男たちを不思議そうに見やる。
「誰かに呼ばれたんだ」
やはり誘拐ではないかと色めき立つ男どもを諫めながら、私は若から仔細を聞き取ろうとしたが、彼にも状況がわかっていないようだった。
当時の若曰はく、この向日葵畑にずっといたのだ、と。確かに途中から我々に名前を呼ばれなくなったのには気がついたが、疲れてやめてしまったのだろうと深く考えなかったらしい。
「全然覚えてないな」
そう言いながら、大人になった若はやっとこちらへ目を向けた。
「そう、ですか……」
「うん。まあ俺、小さい頃のことなんてほとんど覚えてないし」
若は苦笑しながら、開いたままになっていたノートパソコンを閉じる。
「俺はもう帰るけど、おまえはどうする」
「私も今日は帰ります。どうぞお先に。残りの片付けはこちらでしておきますから」
「じゃあ任せた」
また明日と言って出ていく背中を見送る。引き締まっているが、まだまだ青臭い若造の背中を。
あれが、そう遠くない未来で私たちの組を背負う男だ。
誰もいなくなった事務所でひとり、若が心を奪われた絵へ目をやる。
記憶にあるものより平らで陳腐な向日葵畑。
あの向日葵畑で、若はひとりでいたのではなかった。誰かと一緒にいたのだと、当時の彼は言っていた。
友達になったのだと無邪気に笑っていたが、どれだけ探してもそれらしき人間を見つけることはできなかった。
大事な組の跡取りを一時といえど見失い、その間一緒にいたという人間もわからない。そんなことを報告するわけにはいかず、あの日の騒ぎは私たちの胸に秘められている。
今の若が覚えていないというのなら、そのままでよいだろう。まだ私は自分の命が大事であった。
◇◆◇
ぎ、と若の体重を受けとめたオフィスチェアが軋む。
顔を覆う手は冷水に晒しながら執拗に擦ったせいで真赤になっていた。
「大丈夫です。誰だって最初はそうですよ」
冷えきった指の隙間から、気だるげな視線が私のほうへと向けられる。ぼやけていた焦点があったかと思うと、若は緩慢な動きで両手をおろした。あらわになった唇がわななき、その端がわずかに吊りあがる。
痛々しい、と思った。
不格好に歪んだその表情が、ぐったりと四肢を投げ出した姿勢が惨めで憐れに思えたのだ。
私だって、はじめて己の手を汚したときは恐怖した。だが、人間とは慣れるものだ。
今では他人の血を見たところで何とも思わない。もし私が動揺するとしたら、それは親父さんか若の血を見たときだろう。
どうせこれが我々の仕事なのだ。最初こそ怯え恐れたやつらだって割りきることを覚える。どうしてもあわないやつはいなくなる。
若は親父さんの実子で、後継として教育されてきたにもかかわらず、どうにも心の芯がやわい男であった。度胸があり、腕っぷしもよく、頭の回転も早いのに、他人を害するという一点において非常に抵抗があるらしい。
坦々と己に課せられた仕事をこなし、それが終わると若と私しかいない室内で腑抜けのように椅子にもたれて長い脚を投げ出し、例の絵をぼんやりと仰ぐ。
冷水と摩擦で赤く染まった手は腹のうえで組まれ、まるで何かに祈っているようでもあった。
「若……」
彼は身じろぎもしなかった。こういうときは、下手な言葉をかけるよりも時間を置いたほうがよい。
「少し、煙草を吸ってきます。何かあったら連絡を」
「はいはい」
おざなりな返事で、さっさと行けと促される。
ドアノブに手を掛けたところで、若が「ああ」と声を出した。
咄嗟に振り返ると、彼の視線は相変わらず向日葵畑に向けられている。
「若」
「なあ、思い出したよ」
「……何を、ですか」
「昔、向日葵畑で迷子になったときのこと」
ぎ、とオフィスチェアが軋む。
「懐かしいな。おまえらにはこっぴどく叱られたけど、楽しかった。でかい花と花をかきわけて追いかけっこしたんだ」
懐かしそうに目を細めて若は言う。
「そういや、あのとき一緒に遊んだやつ……」
ちょっと『あいつ』に似ていたな。
そう言って、無意識にだろう微笑むその表情はいつかの無邪気さを秘めている。
「若」
「おまえ、煙草行くんだろ。さっさと行ってこい。俺はしばらく眠るから」
邪魔臭そうにひらりと手を振ると、若はしっかりと目を瞑ってしまった。
ここで喰いさがっても機嫌が悪くなるだけで何の収穫も得られない。
私は渋々部屋を出ると、あえて音を立ててドアを閉めた。
この雑居ビルに喫煙室など気の利いたものはなく、吸うなら外に行かなければならない。しかし、私はなるべく気配を消してドアの横に佇んだ。所詮、煙草なんて若をひとりにするための言い訳だったのだから。
いや、本当は吸いに行くつもりだった。だが、最後に聞いた言葉が引っかかってそんな気分ではなくなってしまったのだ。
若がいう『あいつ』とは誰だ。絵を売った、あいつか。
私があれを見たのは絵を売りに来たときの一回きりだが、若はもっと頻繁に会っていたのかもしれない。いくら私が彼の補佐役だろうと、四六時中ともにいるわけではないのだ。
嫌な予感に胸がざわつく。経験則上、こういう感覚がするときはよくないことが起きる。
部屋に戻って若を問い詰めるか。だがこれ以上彼の機嫌を損ねるのは得策ではない。私の首とてそう安くはないが、着実にちからをつけてきた若の判断次第では飛ぶ可能性だってあるのだ。
さて、ではどうしたものか。
にっちもさっちもいかなず、悶々と悩んでいると何も知らない舎弟のひとりがのこのことやってきた。
「お取込み中っすか。若に見てもらいたいもんがあるんすけど……」
「急ぎか」
「はい」
用事があるなら仕方がない。
大義名分を手にいれた私はきりりと顔を引き締めると、ドアをノックした。
「若、お休み中のところすみません。至急見ていただきたいものが……」
返事がないのでもう一度、強くノックする。
「若」
やはり返事はなく、思わず隣の舎弟を顔を見あわせる。
ぞうっと、いつかみたいに鳥肌が立った。
「若っ」
失礼しますと言いつつ、ドアを開け放つ。
はたして、そこはもぬけの殻であった。
事態の飲みこめない舎弟と手分けして探したが、狭い部屋だ。隠れられるところだって限られている。それなのに若はどこにもいなかった。
荒れた形跡はなく、ひとつしかないドアの前にはずっと私がいたし、窓は内側から鍵がかかっている。
どこにも行きようがないはずなのに、彼は忽然と消えてしまった。
ほかの者にも知らせるよう舎弟を走らせ、私はひとり、もう一度室内を見回った。
オフィスチェアには先ほどまで若が座っていた跡が残っている。デスクのうえには飲みかけのペットボトルが一本。しかし、肝心の若だけがいない。
嫌な予感が的中したのだ。だが、いったいどうやっていなくなったというのか。
ほとほと困った私は自然と彼が座っていたオフィスチェアにどっかりと腰をおろした。
深い溜め息を吐きながら見あげた先には、例の絵が掛けられている。のっぺりとして平和ぼけしたような向日葵畑の絵が。
「……は」
何の変哲もない沢山の向日葵の隙間に、見覚えのある姿を見た。
幾度も目にした背中だ。皆の前では決して丸くなることなくしゃんと伸びた、まだ青臭さの残るあの背中だ。
こんなもの、以前はなかったはずだ。最近になって誰かが描き足したのか。もしそうならいつから。若があれだけ気に入っていた絵にそんな真似をするやつがいるのか。まさか若自身の手で。そんな素振り、一切なかったではないか。
「やぁ、ご機嫌いかが」
背後からかけられた声に立ちあがり、臨戦態勢を取る。
「そんな構えないでよ。取って喰いやしないんだから」
ふふ、とそいつは大人びた風情で笑う。
気配もなく現れ、ひとの背後を取ったのはあの絵を売った『あいつ』だった。
「てめえ、どうして……まさか、てめえが若を」
「どうしてそう思うの」
「てめえが関わってから若のようすがおかしかった……そうだ、てめえが絵を売ってからだ。あれから若はおかしくなっちまった」
ふうん、と尋ねたわりには興味なさそうな相槌を打つ。
「だとしたら、どうするのさ」
やつはにやけた顔つきのまま歩き出した。舞台のうえでも歩いているかのようにしなやかな足取りで、絵へと近づいていく。
「若を返せっ。返さなきゃどうなるかくらい、わかってんだろうが、おい」
手近にあったデスクの天板を殴る。こちらとて遊びで長年極道しているわけではないのだ。
だが、どれだけ脅しでもやつは平然としていた。大の男でも怖気づくような勢いで声を荒げても、ものを殴ってみせても、けろりとしている。
やつはそんなふうに飄々としたまま、細い指で絵に触れた。
「おい」
「なぁに」
「うちのもんに手ぇ出してんじゃねぇぞ。今すぐその貧相な手ぇ離せっ」
「うちのもん、ね」
やつはこちらを挑発するように一瞥をくれたあと、絵をそれはそれは大事そうに撫でた。
こんなときですら見惚れてしまうような、優美で愛情深い手つきであった。
「うち、じゃなくて、あいつのでしょう」
「そ……少なくともあんたのもんじゃねぇだろうが」
そいつは、あはは、と笑声をあげた。場違いなほどに明るい笑い声が狭い部屋に響く。
「苦しいねえ。でも、あいつはもっと苦しかったよ」
「何なんだ、てめえ。わかったようなくち利いてんじゃねぇぞ」
「わかるよ。あいつのこと、少なくともあんたよりは、ずっとわかるよ」
そいつは愉快そうに笑い続ける。
「選んだのはあいつだよ。あいつは『僕ら』を選んだんだ、おまえたちじゃない」
澄んだ蒼天のした、太陽のような花に囲まれて、もう誰も傷つけなくていいし、傷つかなくていいんだよ。
そいつは歌うように告げると、背を伸ばして絵に唇を寄せた。若の背が描かれたあたりだった。
ひとつだったはずの笑い声がいくつも響いている。
輪唱のように重なり、波打つ。
察しの悪い私はやっと理解した。
若がずっと焦がれていたあの日の憧憬がそこにあるのだと。
「ま……待ってくれ」
子供たちの笑う声が聞こえる。心底楽しそうに笑っている。
やつがくるりと回る。若と手をつなぎ、踊るように回る。くるりと、楽しそうに回る。
どれだけ耳を澄ましても、響きあう笑い声のなかから若のものを聞き分けることはできなかった。
どれだけ目を凝らしても、軽やかに踊る若の表情を読み取ることはできなかった。
「待ってくれ……返してくれ……あの方は、私たちに必要なおひとだ」
喘ぐように乞うた瞬間、ぴたりと笑い声がやんだ。
耳に痛いほどの沈黙。
何の感情もない視線が注がれる。じわりと汗が滲み、指先一本動かせない。
「必要って、あんたたちの都合でしょう」
それはやはり感情の抜け落ちた声で言った。
「あいつは別にあんたたちのこと、必要としてないよ。あんたたちの身勝手な都合にあいつを巻きこむのはやめなよ」
ほんとはわかっていたんでしょう。
わかっていたのに、わかんないふりをしていたでしょう。
あのひとの痛みを、苦しみを、悲しみを、自分たちの利益のためにわかんないふりしたでしょう。
それは絵を見あげて頬を緩めた。
「もう大丈夫だよ。あんたが傷つくのはもう終わり」
絵のなかに優しく語りかけ、向日葵の群れに埋もれかけた後ろ姿を指先が撫でる。
幸せそうに微笑み、それは消えた。
たった一度、瞬きをしたらもう消えていた。
一枚の絵だけが壁に残っている。
残された絵のなかに若の姿はなく、空は真赤になっていた。神々しい花々のうえに、毒々しいまでの夕焼けが広がっている。
愕然としたまま、私は膝をついた。そのまま震える手で、己の首に触れる。
私は取り返しのつかない過ちを犯したのだ。だがどこで間違えたのかわからない。
最初からずっと間違い続けていたのだろうか。私だけじゃなくて、皆が、すべてが、ずっと。
わからない。
わかるのは、あの日のように向日葵畑から若が戻ってくることはないという、それだけだった。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。
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